由一の真実 1
由一は『白樺』に向かって一人で歩いていた。
早いもので、あれから一年が経過していた。
もしかしたらもう、フラワーショップ白樺はないかもしれない。
堂本に白樺のことを聞いても、何も答えてくれないのだ。
『自分の目で見て確かめてみるといい』
堂本のその一言がきっかけだった。
由一は、どうしても佐川に会っておきたかった。
「・・・・・・・ゆ、由一?」
フラワーショップ白樺で、せっせと切り花の手入れをしていた佐川は、由一の姿を見てビックリ仰天して言った。
今にもその場で、卒倒してしまいそうなくらい響いている。
ブランドもののスマートなスーツに身を包んでいる凛々しい姿は、以前の由一とは輝きが違っていた。
自信に満ちた瞳と堂々とした身のこなしの由一は、きちんと頭を下げて挨拶をした。
「ど、ど、どうして?」
「堂本さんから許可が下りたので」
「ど、堂本さんって・・・。今度、木城組の組長になった堂本さん?」
「はい、そうです」
ニッコリと、穏やかな笑顔を見せて由一が答える。
だがその答えを聞いて、佐川は後ろにひっくり返りそうなくらい驚いた。
フラワーショップ白樺は、あれからなんとか営業しているようだった。
だが、他の店員は誰もいない。
佐川が一人で切り盛りしているのだ。
白樺は、以前のような活気はなかったが、なんとか暮らしていけるだけの客は確保している。そんな感じだった。
「お店、なかったらどうしようってずっと気になってて・・・。でも佐川さん、お元気そうでよかったです。あれからもう賭けマージャンはやめたんですか?」
と、由一が優しい声で言うと、襟首が伸びている古ぼけたTシャツに短パン姿の佐川は、あの時のことを思い出したのか、感極まってわっと泣き崩れてしまった。
黒縁の眼鏡が、床に落ちる。
「す、すまん、由一っ!あの時は・・・ああするより他になくて・・・・・。だが俺も、あれからずっと気になってて・・・。何度も店を閉めてここから逃げ出そうと思ったができなかった。由一にすべての責任を押し付けてしまったみたいで・・・本当に済まないっ。由一っ。!」
佐川は身体を震わせて泣きながら、由一に向かって深々と頭を下げている。
由一は、たった一年間の間にずいぶんと痩せて老け込んでしまった佐川を見て、なんだかとても切なくなってしまった。
佐川を責めるつもりで来たのではない。
堂本の情夫になったことへの恨みを言うために来たわけでもない。
現に由一は、堂本の情夫になってとても幸せだったし、佐川を一度でも恨みに思ったことなどなかった。
だが、そういう立場に追い込んでしまった者の方は、ずっとその罪の意識が心の痼りとなって残り、いつまでも苦しみ続けていたのだ。
由一は、そのことに初めて気づいた。
こんなことならもっと早くに訪ねてきて、自分は大丈夫だと言ってあげればよかった。
こんなに老けてしまって・・・。
由一の胸が、キュンと痛む。
「もう、もう気にしていませんからっ。堂本さんもとても優しくしてくれるし、全然、佐川さんのこと、ひどいだなんて思っていないですから。本当です」
由一は、コンクリートの上にしゃがみこんで、みっともない格好で泣いている佐川の肩にそっと手を置いて言った。
するとその言葉に救われたのか、佐川は顔をグチャグチャにして泣く。
由一は、中年の男がこんな所で我を忘れて泣くなんてみっともない、とは思わなかった。
やっぱり佐川さんは心の優しい男性なのだと、嬉しく思っていた。
十六年前のあの日。
ずっと田舎で暮らしていた小学生になったばかりの由一と母親は、父親の酒乱と暴力から逃れるように東京にやって来た。
大都会の東京に行けば、子連れでもなんとかなる、そう思っていたのだ。
だが、田舎から来た子連れの病弱な母親には、まともな職などなかった。
それどころか、保証人がいないために小さなアパートさえ借りることができなかった。
家を飛び出した時に持ってきたわずかなお金もすぐに尽きてしまい、小学生だった由一と母親は路頭に迷ってしまっていた。
今さら、田舎の家に帰ることはできなかった。
帰れば、酒癖の悪い父親のひどい暴力が待っているだけなのだ。
そんなことならいっそのこと、このまま死んでしまおうか・・・そう思っていた時、偶然にも佐川に出会ったのだ。
『どうしたんだい?』
東京に来て二週間。
たった一言、その言葉を掛けてくれたのは、佐川だけだった。
今にも倒れそうな母親が泣き泣き事情を話すと、可哀想に思った佐川は何度も小さく頷きなから言った。
『じゃあ、ずっと野宿してたのか?こんな小さな子供と一緒に?そりゃあ大変だっただろう。よし、まずは飯を食わせてやるから俺の家に来いよ。っていっても、御馳走なんてねーけどな』
都会の花屋にしては少し古臭くて小さかったが、由一はそんなことは全然気にしなかった。
花屋の二階の一室で食べた食事は、温かいお茶漬けだった。
おしんこと梅干しがご飯の上にのっかっているだけの、質素なお茶漬けだったが、丸一日何も食べていなかった由一にはものすごい御馳走に見えた。
『さぁ、食えよ。遠慮なんかすんなよ。飯だけはいっぱいあるからな?』
佐川は照れくさそうにそう言って、母親と由一に食べるようにすすめた。
由一と母親は、無我夢中でお茶漬けを食べた。
温かくて美味しくて、由一も母親も泣きながらお茶漬けを食べたのを覚えている。
あれから住み込みの職をやっと見つけた母親と由一は、三日後に白樺を出ていった。
『もっといてもいいんだぜ?』
と、佐川は言ってくれたが、そこまでは甘えられないと母親は断った。
それから三年後、母親は病気で他界し、由一は施設に預けられた。
父親はいたのだが、引き取るのを拒否したのだ。
だが由一はそんな現実にも少しもめげず、あの時助けてくれたお花屋さんの気持ちに少しでも報いたいと一生懸命勉強した。
そしていつか、佐川さんに恩返しをしたいといつも思っていた。
あれから十年以上の時が過ぎ、成人した由一はフラワーアレンジメントの技術を習得して、白樺に行った。
あの時、母親と幼かった自分を救ってくれた恩を返すために。
借金の形に、無理やり堂本の情夫にされたりしたけれど、今でもあの感謝の気持ちは変わっていないのだ。
「・・・・・今日、私がここに来たのは、あの時にお預かりしていたものをお返しするためです」
由一はひとしきり泣いた佐川にそう言って、手に持っていたものを差し出した。
佐川は床に落ちていた眼鏡を拾うと立ち上がり、由一が差し出したものを見つめる。
それは、四方の端が破れてボロボロになっている、とても古い紙切れだった。
紙切れには、何やらボールペンで書いてある。
「これに、見覚えはありませんか?」
由一に言われ、佐川は顔を近づけてじっと紙切れを見つめる。
茶色い染みがついている紙切れには、電話番号と住所が書いてあった。
驚いたことに、その住所はこの白樺のものだった。
電話番号も、ここのものである。
「こ、これは・・・?」
不思議そうな顔をして、佐川は由一の顔を見上げた。
由一は優しい顔でふふっと笑って、口を開いた。