さっきからずっと通りのウインドーのほうを向いている宇宙に、足裏マッサージをしている遼一がそっと声をかけた。
「あっ、ううん。別に何も・・・。ただ・・・てっちゃんが今通ったような気がして・・・」
同じように足裏マッサージをしている宇宙は、小声で答えた。
とたんに、遼一もウインドーのほうを見る。
だが窓の外は花で埋もれていて、通りが見える隙間はわずかだった。
「本当にてっちゃんだったのか?」
指を動かし、ツボを指圧しながら遼一が聞く。
すると、最後に蒸しタオルで客の足を綺麗に拭いている宇宙は、不思議そうに首を捻った。
「見たわけじゃなくて、なんとなくそんな気がして・・・」
宇宙の言葉を聞いた遼一が、柔らかく笑う。
そんな気がして・・・と宇宙が言うと、本当にそうだったような気がしてくるから不思議だった。
もしかしたら本当に、てっちゃんと丸君が様子を見に来てくれたのかもしれない。
遼一はマッサージをしながら、心の中でてっちゃんと丸君に『ありがとう』と呟いた。
そして宇宙も。てっちゃんと丸君の顔を思い浮かべながら、心の中で『ほんとにありがとう』と呟いた。
藤堂四代目の命を受け、遼一の様子を見に来ていた桜庭は、予想どおりの光景に思わず笑みを漏らしていた。
店から少し離れた横道に一台の黒いベンツが止まっているが、その後部座席から双眼鏡を使って店の様子や紅林組の組長の様子、そしててっちゃんと丸君の散歩の風景を観察していた。
「四代目のおっしゃったとおりだ。紅林組はいまだに遼一を諦める様子はないし、あれからどこかに雲隠れしていた相模鉄男もオープン初日に現れたし。それにしても祝いの花が多すぎて中の様子がよく見えないな」
と、桜庭が呟くと、運転手が気を利かせて少しだけ車を移動した。
ちょうど、店の中の様子が見える場所に来て、桜庭は身を乗り出して双眼鏡を覗き込んだ。
「店はなかなか繁盛しているようだな。だが問題は紅林組の跡目の件だが、どうやって組長に承諾させるか、それが問題だな。あの様子では滅多なことでは諦めんぞ」
桜庭は困り果てたようにそう言った。
藤堂四代目に、紅林組の跡目の件を一任されたものの、どのように対処したらいいのか正直頭を悩ませていた。
跡目である遼一は組を継ぎたくないと言い張り、一度は諦めた組長はやっぱり諦められないと言い張り、ついには泣きを入れられ、ほとほと困っていた。
「仕方がない。店が終わった後、もう一度だけ遼一と話してみるか」
困った結果の結論が、それだった。
「いったん、四代目のところに戻ってくれ」
桜庭はそう言うと、双眼鏡を隣に座っている側近の一人に手渡した。
「もうよろしいんですか?」
「これ以上二人を見ててもしょうがない。帰って対策を考えるとするか」
桜庭は、困惑したまま煙草を口に銜えた。
隣に座っていた側近の一人が、火の点いたライターを差し出す。
外国製の煙草をうまそうに一服しながら、桜庭は帰路についた。
「いらっしゃいませ」
宇宙の声が店内から聞こえる。
ラベンダーは予想どおり、お昼過ぎにはOLやサラリーマンで混雑していた。
十分間マッサージというのが人気で、料金も千円とお手軽な感覚が受けたようだった。
忙しそうに次々とお客様にマッサージをしていく宇宙と遼一。
そんな二人の様子を、向かい側のオフィスビルの二階の喫茶店からじっと見つめている人物がいた。
それは紅林組の組長であり、遼一の父親だった。
「組長、そろそろ戻りませんと・・・」
一人の幹部が、ずっとコーヒーを飲み続けてねばっている年老いた組長に声をかける。
白髪頭だが、ビシッとしたオートクチュールのスーツを着ている組長は、まだだとばかりに首を横に振った。
「ですが、オープン前からもう三時間にもなりますし・・・」
「うるさいっ!俺はまだ見ていたいんだ。事務所に帰りたいなら勝手にお前たちだけで帰れ」
「組長〜・・・」
「息子が働いている姿を見ていて何が悪いってんだ。そうだろう?それより、もっと豪華な花にできなかったのか?祝い花の数もあれじゃ全然足りんだろうがっ!」
店の前にドーンッと置かれた開店祝いの花輪を見て、組長がイライラしたように言う。
その言葉を聞いていた周りの幹部たちは、困り果てたように顔を見合わせた。
「・・・ですが組長。あれ以上置いたら、店が見えなくなりますよ?」
「店が見えなくなるのが悪いのか?どうせだったら、ドーンッと豪華にやったほうがいいじゃないか?そうだろう、ええっ!?」
親馬鹿と成り果てた組長に、幹部たちは何を言ったらいいのかわからない。それぞれ窓側のテーブルに座っていた幹部たちは諦めたように、何杯目かのコーヒーを注文した。
「組長、あの様子だと全然諦めてないですよ、遼一を跡目に据えること」
一人の幹部がボソッと言う。
すると、とても怖そうな顔をしている幹部の一人が顔を近づけて、困ったように大きく頷いた。
「・・・本人にはまったくその気がないのに、困ったもんだ」
「俺たちで説得して、なんとか跡目に座っていただくか?」
「いや、それは無理だろうな。あの藤堂四代目の右腕的存在の桜庭さんが直接言っても首を縦に振らなかったっていうんだからな。組長にはかわいそうだが、遼一さんには極道の世界に入る意思がまったくないんだ」
「だがそれを本人が自覚していないから困るんだよ。やらなきゃならないことが山のように山積みしてるし、大事な会合はすっぽかし。最近の組長は遼一さんばかりで・・・」
幹部たちが雁首を揃えて話し込む。
組長はそんな幹部たちの話などまったく気にしないで、窓から最愛の息子をじっと見つめていた。
「だいたい、店が小さすぎるんだ。なんでもっとでかい店にしなかったんだ?金ならいくらでも融通しろと銀行に言っておいたのに、あの野郎。ケチりやがったな?」
組長が独り言を言う。
「店員ももっと雇えばいいんだ。見ろ、あの混みようを!あれじゃあ休む暇もないじゃないか。もっと店員を雇って自分は監視だけして甘い汁だけ啜ってればいいんだ」
コーヒー飲みながら、イライラしたように組長が言う。
幹部たちはその言葉を聞いて、困惑したようにため息を漏らした。
「遼一さんはそれをしたくないんだって」
「恋人と二人で汗を流しながら一生懸命働きたいんだって」
「だから跡目を継ぎたくないって言っているのに、どうしてわからないかなー?」
幹部たちが、またため息を漏らす。
その日、幹部たちはずっとその喫茶店でため息を漏らし続けた。
「心配して来てみたけど、なかなかどうして、すげー混んでるじゃん」
そう言って店の前を通り過ぎた丸君は、薄汚れた黒いパーカーと膝のあたりが破れたジーンズを穿いていた。
「よかったな」
店の中の混雑ぶりを見て安心したように頷いたてっちゃんは、肘のところが破れたチェック柄の上着とよれよれのスラックスを穿いていた。
二人はまた、ホームレスに戻っていた。
「だから言ったろ。あの二人なら絶対大丈夫だって。あんなことがあったって、屁でもないって」
と、てっちゃんが言う。
丸君はてっちゃんを見た。
てっちゃんは、まだ通り過ぎた店を何度も振り返っていた。
よほど宇宙のことが気になるらしい。
「もしかしててっちゃん、宇宙に惚れちゃったりして?」
と、丸君が言うと、てっちゃんは思いもつかないことを言われたというような顔をして丸君を見つめた。
「父親と息子ほども年齢が違うんだぞ。対象外だよ?」
「どっちが?てっちゃんが?それとも宇宙のほうが?」
「俺のほうに決まってるだろうが。アホ!」
少し怒ったような口ぶりでてっちゃんが言う。
すると丸君は、少し間を置いてから俯き加減に言った。
「じゃあさ、俺はもっと対象外ってこと?」
丸君の言葉を聞いて、てっちゃんの足が思わず止まってしまう。
「・・・やっぱ、そうだよね」
丸君が諦めたような感じで言う。
てっちゃんは少しの間呆気に取られていたが、すぐふふっと笑って丸君のボサボサ頭をクシャッと撫でた。
「・・・お前は別だ」
「えっ?ほんと?今のほんと?てっちゃん!?」
再び歩き出したてっちゃんの後を必死に追いかけながら、丸君が言う。
てっちゃんはもう、それ以上は何も言わなかった。
「ねーっ、てっちゃん。もう一回言ってよ。さっきの言葉。もう一回。ねっ?」
だがてっちゃんは、二度と同じ言葉を口にしなかった。