東京スペシャルナイト 上 26
- 2016年01月26日
- 小説, 東京スペシャルナイト
「変な噂を耳にした」ウルトラスペシャルマッサージを終えた後、亨は高価な上着に袖を通しながら何気なくそう言った。
ベッドのまわりを片付けていた桜井は、内心ドキッとしながらも平静さを装って『何がでしょうか?』と聞いた。
すると身支度を整えた亨が、かなり強引に中腰になっていた桜井の顎を掴み、そのまま引き上げる。
「痛いっ!」
思わず、桜井が言う。
端正な桜井の顔が、苦痛に歪んでいるのを亨はまるで楽しんでいるかのように冷淡な瞳でじっと見つめていた。
「とぼけるのか?」
と、太い眉尻を上げて、不機嫌さを表している亨が聞いてくる。
桜井は顎を強く掴まれたまま、知らないと首を横に振った。
亨の切れ長の瞳がわずかに細められる。
そして亨の指が、乱暴に桜井の顎から外れる。
「まぁ、いい。お前も自分の立場ってものは知ってるはずだからな。余計な感情は抱かないことだ。俺は父親から譲り受けたお前を、そう簡単に手放したりはしないからな。それだけはよく覚えておけよ」
肩幅の広い背中を向けたままそう言って、亨が部屋から出ていく。
ドアの外には、部下が数人待っていた。
その中にはエリートサラリーマンのような男もいたが、中には少し危なそうな雰囲気を持っている男もいた。
週刊誌を騒がせ、今をときめく青年実業家の顔を持つ亨は、世間に知られることなく、裏ではかなり危ない仕事もしていた。
政治家である父親の後を継ぐということは、つまりそう言った危ないものも、ともに引き継ぐということなのだ。
桜井は、狭いマッサージルームの中でぐったりと床に膝をついた。
やはり知っているのだ、宇宙のことを。
客として来ている宇宙を特別扱いしていることを、店の誰かがチクったか、それともあのときのチンピラたちの誰かが亨にしゃべったか・・・・・。
どちらにしても、あの人『亨』はもう宇宙の存在に気づいていた。
「まずいことになった。亨がこのまま黙っているとは思えないし・・・」
桜井は、宇宙の屈託のない笑顔を思い出しながら頭を悩ませていた。
宇宙のことを亨の耳に入れたのは、おそらく側近の恭也だろうと桜井は直感した。
きっと、先日の街中での騒ぎもどこかで見ていたに違いないのだ。
恭也はこの街を徘徊するチンピラやヤクザたちの若頭的存在で、一見顔は綺麗だがとても冷酷な目をしている男だった。
情とか愛とかがまったく存在しない目を持つ恭也は、桜井にとっても要注意人物だった。
一度逃げ出したときも、恭也がいなければうまくいったのに。
あのときはまだ組に入ったばかりの恭也だったが、狡猾さは他のヤクザたちの中でも群を抜いていた。
「宇宙のことを亨の耳に入れたのが恭也なら、これ以上無理はできない」
桜井は、慎重に考えをめぐらせた。
恭也がずっと亨に対して特別な感情を抱いていたのは知っている。
亨に囲われている桜井の身を疎ましく思っていたのも知っている。
あのとき、宇宙がチンピラたちに絡まれていたとき、そこには恭也の姿はなかった。
やはりどこかで見ていたのだ。
そしてその後、宇宙と桜井を尾行し、ラブホテルに入ったのを確認したのだ。
あのとき、恭也の存在に気づいておくべきだった。
「卑怯なヤツだ。そんなことをしてまで亨に気に入られたいのか・・・」
桜井は、チッと舌打ちをして立ち上がった。
こうしてはいられない。
一刻も早く宇宙に会って、絶縁状を叩きつけなければならない。
そうしなければ、宇宙の身が危ないのだ。
桜井は、政治家である亨の父親が十年前にしたことを思い出していた。
ヤクザに札束を積んで桜井を買い取った亨の父親は、桜井の身体をいいように弄んだ。
ありとあらゆる快楽を覚えさせられ、また亨の父親にその快楽を与える術を学ばされた桜井は、心の底から亨の父親を憎んでいた。
そして同じくらい亨も憎かった。
自由を奪われた十年の間、心はいつも空虚だった。
心が満たされることなどなかった。
いつもいかなるときでも求められれば快楽を与える人形。
それが桜井だったのだ。
「・・・・・宇宙にもし何かあったら・・・」
宇宙に出会って初めて心が温かくなり、潤い、そして満ち足りたのだ。
宇宙を手放したくない。
やっと見つけた、愛する宇宙を諦めたくない。
だが、今の立場の自分が宇宙を守るためには、心とは裏腹な絶縁状を叩きつけるしかなかった。
無理に愛想づかしをすることで、宇宙を亨から守るしかない。
「宇宙・・・・・」
桜井は、シルクのオープンシャツの上に黒いジャケットを慌てて着ると、そのままマッサージルームを出ていった。
亨を乗せた高級外車は、もうどこにも見当たらなかった。