東京スペシャルナイト 上 29
- 2016年02月05日
- 小説, 東京スペシャルナイト
宇宙は、恭也に命令されたチンピラたちに連れ去られるところだった。
五人のチンピラたちに手や肩を押さえつけられている宇宙の前に飛び出した桜井は、そのまま一人の男の顔面を殴った。
ガツンッと鈍い音がする。
「・・・・・・?」
木々の間から急に出てきた桜井の拳をまともに顔面に受けた男は、そのまま地面に倒れた。
そこは、人通りの少ない公園の中の公衆トイレの近くだった。
「てめーっ!何しやがるっ!」
仲間が殴られたことに腹を立てたチンピラの一人が、殴った男に挑みかかろうとする。
だがその男が桜井だと知ると、すぐに躊躇して足を後退させた。
桜井が亨にとって特別な情婦であることを、恭也だけでなくチンピラたちも知っていた。
「さ、桜井さん?」
宇宙も、桜井がチンピラを殴ったことに驚いて声を上げる。
「宇宙を離せ、恭也」
桜井は、恭也に向かって凄むように言い放った。
黒いスーツに黒いサングラス姿の恭也は、吸っていた煙草を桜井に投げつけ、フーッと大きく息を吐いた。
「いいんですか?こんなことをして・・・。あの方が知ったらどういうことになるか・・・」
「脅し文句はいい。あの方が知っているからこういうことをしてるんだろう?」
と、いつもの優しいイメージとまったく違う桜井が、全身から怒りの覇気のようなものを立ちのぼらせながら重々しく言う。
まるでヤクザの組長のような威圧感に圧倒されたチンピラたちは、宇宙の腕や肩を掴んでいた手を離し、慌ててその場から後退した。
ジリッと、桜井が恭也に近づく。
「もう一度言う。宇宙を離せ、恭也」
桜井の声も、いつもの穏やかで優しい声ではなかった。
低くて威厳があって、まるでその声は別人のようだった。
身体が自由になった宇宙は、唖然として桜井に見入った。
そこにいる桜井は、宇宙の知っている桜井ではなかった。
亨という一人の男に囲われている、桜井遼一だった。
「・・・亨様に話しますよ?」
ニヤッと笑って、恭也が言う。
その笑いにはさまざまな意味が含まれていたが、桜井は頭から無視した。
恭也の思惑など、考えている暇などなかった。
今は一刻も早く、宇宙を助け出さなければ。
「話したければ話せばいいい。それがお前の仕事なんだろう?」
皮肉をたっぷりと込めた言葉は、恭也の癇に障ったようだった。
ピクッと、綺麗な眉が動いたのを桜井は見逃さなかった。
「後でどうなっても知りませんよ。あなたも・・・その男も・・・」
恭也が、冷淡な瞳を細めて言う。
桜井はその言葉に答える代わりに、宇宙の腕をグイッと自分のほうに引っ張った。
腕の中に宇宙を抱いて、桜井は恭也を睨みつける。
「何か言うことがあるなら、私に直接言え。宇宙に手を出すことは許さない。それがたとえ・・・亨様でも・・・」
ついに言ってしまった。
と、桜井は心の中で思った。
決して口に出しては言ってはいけない言葉だったのに、最も危険に満ちている言葉だったのに。
これでは恭也に命令している亨に対して、喧嘩を売っているようなものだった。
いや、実際こうなってしまったら喧嘩だった。
あーだこーだと、理屈をこねている場合ではないのだ。
愛する者は命をかけて守り通す。
ただそれだけだった。
それがどんなに馬鹿げて見えようが、くだらないことに思えようが、桜井にとってはこの世の中でもっとも貴いことだった。
とても大切なことに思えたのだ。
「馬鹿か、お前は?そんな男のために、今までの自分を捨てるのか?この街で大きな顔をして歩いていられるのも、亨様のおかげだろうが。ええ?」
恭也は、ペッと地面に唾を吐きながらそう言った。
まるで汚い者でも見たかのようなやり方だった。
それを見ていた桜井の感情が、剥き出しになっていく。
「馬鹿で結構だ。私は今の人形のような暮らしよりも、危険と背中合わせだが宇宙を愛するほうを選ぶ。亨様の囲い者なって十年。それは私が望んだものではない。もういい加減、私を自由にしてくれてもいいはずだ」
と、桜井が宇宙を背中に庇うように言うと、恭也はふふっと意味ありげに笑った。
「言ってくれるね。格好いいよ。まったく。だがな、お前の意思など関係ないことをまだ分かっていないのか?お前はあのときから金で買われた囲われの身なんだ。亨様の父親があのときお前を買っていなかったら、今のお前はもっと悲惨な人生を歩んでいたんだぞ。それくらい分かっているだろう?」
一見綺麗な顔をしている恭也がサングラスを外しながらそう言って桜井の顎をきつく掴む。
はっきりとは分からないが、うまく恭也に乗せられているような気がする。
なぜだか分からないが、桜井は不意にそう思った。
だが、今は考えているときではなかった。
その指を乱暴に振り払った桜井は、これからの自分の人生に挑むようにはっきりと言い放った。
「私は、私の人生を歩みたい。もう誰にも縛られることなく、誰の命令も受けることなく、自分の好きなように生きていきたい。これから帰って、亨様にそう伝えてくれ。桜井遼一は自由になることを望んでいると・・・」
「・・・・・本当にいいんだな?俺はそのとおりに伝えるぞ?」
少し間を置いてから、新しい煙草に火を点けながら恭也が聞く。
その声には情のようなものは通っていなかった。
むしろ、事の成り行きを楽しんでいるかのような響きがあった。
恭也の密やかな想いに気づいていた桜井は、これから自分の身に降りかかるであろう災いを想像しながら言った。
「伝えてもらって結構だ。私は、もう亨様の言いなりにはならない。宇宙を愛し抜くと決めた」
「いい覚悟だ」
恭也はそう言い捨てるとサングラスを掛け、踵を返した。
手で合図して、チンピラたちを引き揚げさせる。
桜井は、公園の林の中に消えていく恭也の後ろ姿を見つめながら、宇宙の身体を抱きしめていた。
「桜井さん?」
しばらくして、宇宙がそっと桜井を呼ぶ。
さまざまなことを想像していた桜井は、はっと我に返って宇宙の顔を見つめた。
宇宙の薄茶色の瞳には、涙が溢れていた。
「桜井さん・・・大丈夫なの?あの人にあんなこと言っちゃって・・・大丈夫なの?本当はまずいんでしょう?ごめんなさい、僕のために・・・。僕があいつらに捕まったりしなければ・・・桜井さん・・・・・」
宇宙は、桜井がまずい立場に立たされたことを感じ取っていた。
そして桜井がそういう立場に追い込まれたのは自分のせいだと思い込んでいた。
間違ってはいないが、これは桜井自身が選んだ答えである。
決して宇宙のせいではないのだ。
「違いますよ、宇宙。これは私自身の問題なんです」
「でも・・・あの黒いスーツの人、すごく怒ってたよ。綺麗だけど、ものすごく冷たい目をしてた。何かとても怖いことをしそうな・・・そんな感じがしたけど・・・」
桜井はそんな宇宙を抱きしめながら、落ち着かせるようにそっと髪を撫でた。
「・・・今までの私はずっと死んでいたんです。宇宙と出会って、生き返ることができました。これからどんな苦難が待ち受けていても、私は決して後悔はしませんよ。それより、宇宙のほうこそ、私と出会ってしまったことを後悔させてしまうかもしれません。私と出会わなければよかったと・・・」
と、言った桜井の唇を、宇宙を背伸びをするようにして塞いだ。
決して上手なキスじゃなかったけど、宇宙の思いが十分に伝わるキスだった。
「僕は後悔なんてしていない。桜井さんと出会って・・・好きになることができて本当によかったと思ってる。ほんとだよ」
宇宙は、桜井の胸に顔を埋めて熱く告白する。
その告白を聞きながら、桜井は亨の束縛から逃れる覚悟を決めた。
「宇宙に話しておきたいことがあります。私の過去の話です」
桜井の真剣な言葉に、宇宙はただ黙って頷いた。