東京スペシャルナイト 上 32

桜井と宇宙が入ったのは、場末の安いラブホテルだった。

 

どこでもいい。

 

とにかく今は二人だけになりたかった。

 

話したいことがたくさんある。

 

だけど、時間がない。

 

それは桜井だけでなく、宇宙も直感で感じ取っていた。

 

小さな部屋にダブルサイズのベッドが一つ。

 

そして小さな冷蔵庫と小さなテレビ。

 

そしてユニットバスとトイレがあるだけの部屋だったが、今の二人にはそれだけでも十分だった。

 

「何から話したらいいのだろうか」

 

ベッドに腰を下ろした桜井は、隣に宇宙を座らせてそう言った。

 

先ほど、ヤクザのような男に啖呵をきっていたときの桜井とは全く別人のように、優しい声だった。

 

自分を見つめる眼差しも、優しさと慈愛に満ちている。

 

とても同じ人物のようには見えなかったが、目の前にいる桜井こそが本当の桜井だと宇宙は信じていた。

 

桜井があのとき、あのヤクザのような男に挑んでいなかったら、きっと自分は攫われていた。

 

いや、自分だけじゃない。

 

桜井だって捕らえられていたかもしれないのだ。

 

黒いスーツ姿のヤクザ風の男には見覚えはなかったが、この前のチンピラたちと繋がっていることは一目瞭然だった。

 

なぜ桜井さんは縛られているのだろうか?

 

あんなヤクザのような男たちに。

 

それにあの男が言っていた、亨様っていったい誰なんだろうか?

 

宇宙は、桜井に安物のスーツを脱がされながら、ずっとそんなことを考えていた。

 

「最初から・・・全部話して。僕は何を聞いても驚かないから。もう・・・あなたから離れないって決めたから」

 

宇宙は上半身裸にされると、桜井の首に抱きつきながら言った。

 

桜井が、そんな宇宙をそっとベッドの白いシーツの上に押し倒す。

 

「宇宙が想像している私とは、全然違うんです。私は宇宙が思っているような人間じゃない」

 

そう言った桜井の顔は、悲しみとせつなさが入り交じったような表情をしていた。

 

十年間というもの不当な扱いを受け、それに耐え忍んできた苦悶の表情だった。

 

だが宇宙には分からない。

 

なぜ桜井が、そんな苦汁を飲まされたような表情をしているのか。

 

宇宙は、そっと桜井の前髪に指を絡めた。

 

「あの恭也という人は、どういう人なの?桜井さんの過去にいったい何があったというの?」

 

宇宙が、同じようにせつなそうな顔をして聞く。

 

すると桜井は、宇宙の薄茶色の瞳をじっと見下ろしながら顔にかかる髪を指で弄った。

 

「私の話を聞いたら、私を嫌いになってしまうかもしれない」

 

唇にそっとキスをして、桜井が不安げな声で言う。

 

宇宙はすぐに首を振って、その言葉を否定した。

 

「ううん、そんなことは絶対にないから。僕はどんな話を聞いても桜井さんを嫌いになったりしないから。桜井さんを命をかけて愛するって決めたんだから。だからお願い話して。ねっ?」

 

いつになく、不安げな桜井の声。

 

そして細められた瞳。

 

いつもの自信に満ちていて優しく穏やかな桜井からは想像もできない姿だった。

 

きっと、とんでもない不幸が桜井の過去にあったのだ。

 

今まで気づかなかったけど、考えてみれば桜井ほどの男がただのマッサージ師でいることも不思議だった。

 

エリートサラリーマンとか、青年実業家とか、桜井が望めば思いのままのはずなのに。

 

どうしてマッサージ師という職業に縛られているのだろうか。

 

もしかしたら、スペシャルマッサージとかウルトラスペシャルマッサージも、その辺に関係があるのかもしれない。

 

宇宙は、何を聞いても決して自分の気持ちは変わらないという固い決心を抱いて、桜井の話に耳を傾けた。

 

「話は、約十年前に遡ります・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 31

「紅林組の例の息子は、まだ見つからないのか?」

 

藤堂組四代目である藤堂弘也は、車中で桜庭健一に思い出したように聞いた。

 

いつもは恋人の三原真琴が隣に座っているのだが、今夜は政則と一緒に映画を観に行っていた。

 

真琴の特等席に座っている藤堂の右腕である桜庭は、クールな横顔のまま答えた。

 

「今、手の者たちに探させています。もうしばらく時間をください。二十五年も前の話ですし、愛人であった母親は失踪した直後に死亡。その三歳だった子供は親戚をたらい回しにされ、その後養子に出されているところまでは調べたのですが・・・」

 

藤堂は、高級外車の後部座席にゆったりと上体を預けながら桜庭の報告を聞いていた。

 

「今、生きていれば二十八歳ぐらいか?」

 

「はい。生きていれば・・・ですが」

 

と、答えて桜庭は藤堂を見た。

 

黒髪をオールバックで固め、オートクチュールの紺色のスーツを格好よく着こなしている藤堂は、紅林組の組長に頭を下げられたときのことを思い出していた。

 

紅林組には跡取りがいた。

 

だが組同士の抗争に巻き込まれ、命を落としてしまったのだ。

 

紅林組の組長には跡取りがいない、と思っていたが、実はもう一人いた。

 

愛人に息子が生まれたのだが、正妻の恨みを買うのが恐ろしくて認知しなかったというのだ。

 

金は仕送りしていたものの、組長は正妻の嫉妬を恐れて子供に会うことを避けていた。

 

ある日、愛人が子供とともにマンションから消えてしまい、それから二十五年間、二人の行方は不明だった。

 

紅林組の組長は、その愛人の子供に跡を継がせたいと藤堂に申し出た。

 

藤堂は最初、その提案を拒否した。

 

紅林組は藤堂組の傘下にあり、幹部から若い手下たちを合わせると百人を超える巨大な組織だった。

 

その紅林組を、自分の素性を知らないただの素人に任せるというのだ。

 

「私は、あの子の運の強さを信じたいんです。あの子の、修羅の魂を・・・」

 

年老いた組長はそう言って、藤堂に深々と頭を下げた。

 

そんな組長を見て、藤堂はもう反対する気にはならなかった。

 

修羅の魂というものに賭けてみようと思ったのだ。

 

修羅の子はどこにいてどんな育ち方をしていようと、必ず修羅になる。

 

承諾した藤堂は、紅林組の組長に一つだけ条件を出した。

 

それは、その者が紅林組を引き継ぐ素質があるかどうかを藤堂が直に見極めるということだった。

 

そのためにも、愛人の息子を探し出さなければならない。

 

藤堂の全国にクモの糸のように広がる情報網は、警察と肩を並べるほど巨大な組織だった。

 

その組織が動いている。

 

見つかるのは時間の問題だった。

 

「本気で組の跡を継がせるおつもりですか?」

 

ダークグレーのスーツを着ている桜庭が、何も言わずに煙草を吸っている藤堂に向かって聞いた。

 

「いけないか?」

 

「いえ、藤堂四代目がなさることには誰も文句は言いません。ただ、その者にこの現実を受け入れられるのかが問題だと思います。恐らく、一般人として育っているのでしょうから」

 

と、桜庭が言うと、藤堂は前を向き直ってから口を開いた。

 

「真琴も一般人だったが、今では幹部の上をいくときがある。そうだろう?」

 

藤堂の言葉に、桜庭は納得するように頭を下げた。

 

「はい、そのとおりです。その者、早急に探し出します」

 

「ああ。そうしてくれ」

 

藤堂は短く答えると、その後は何も喋らなくなった。

 

瞼を閉じ、何かを考えているようである。

 

桜庭も、藤堂組にとっても重要である紅林組の跡取りがどういう人物なのか頭の中でいろいろと想像を巡らしていた。

 

二人を乗せた黒いロールスロイスは、真琴が待っている銀座に向かって走っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 30

できるならあのまま、海外にでも逃亡してくれれば手間が省けていいのだが。

 

恭也は、座り心地のよいベンツの後部座席に身を沈めながらそう思った。

 

煙草を口に銜えると、隣の手下の男がすかさずライターで火を点ける。

 

いや、それでは芸がなさすぎるか。

 

せっかく桜井が亨様に逆らうように仕向けたのだから。

 

桜井の目の届くところで宇宙を攫うように見せかけたのも、桜井の本心を聞き出すため。

 

まんまとその目論見は成功した。

 

桜井には今までいい思いを味わってきた分、苦い思いを味わわせてやらなければ。

 

まぁ、本人はいい思いを味わってきたとは思っていないようだが、傍から見てきた俺には十分にそう見えるのだからしょうがない。

 

十年近くも亨様の下半身のマッサージをしてきた罪が重いということを、十分に知らしめてやらなければ。

 

亨様は、愛人に飽きればすぐに変えてきたのに、桜井だけは手放さなかった。

 

それが恭也には気に入らなかった。

 

あんなマッサージぐらい、自分でもできるのに。

 

スペシャルマッサージだって、ウルトラスペシャルマッサージだって、恭也は熟知している。

 

いつ、亨から声がかかってもいいようにと、極秘にその道のプロに手ほどきを受けたのだ。

 

すべては桜井に代わって、亨に触れたいため。

 

亨の分身を弄って感じさせて、自分の手で絶頂を極めさせてあげたいため。

 

亨のすべてを愛したいため。

 

できることなら、桜井の手足の一本ももぎ取ってやりたいが、それにはもう少し色づけをしないといけないな。

 

煙草の煙をくねらせながらさまざまなことを考えていた恭也は携帯を取ると、リダイヤルを押した。

 

電話に出たのは、亨だった。

 

「桜井の相手の男を捕らえるのは失敗しました。ですが桜井の本心を知ることができました。桜井は亨様の束縛から逃れたいそうです」

 

『・・・・・・・・』

 

しばらく沈黙が流れる。

 

「亨様に縛られることなく、自分の人生を歩みたいそうです。あの宇宙という教師と一緒に」

 

最後の言葉が、電話を聞いていた亨の癇に障ったのを微妙に感じ取った恭也は、構わず言葉を続けた。

 

「二人は今一緒にいます。行き場所は見張りを一人残してきたのですぐに分かります。どうされますか亨様?二人一緒に捕らえますか?それとも別々に捕らえ、二度と会えないようにしてしまいますか?」

 

恭也の言葉には、ゲームを楽しんでいるような余裕があった。

 

『二人一緒に捕まえろ。桜井は私のところに。相手の男はお前に任せる』

 

亨はそれだけ言うと、電話を切った。

 

不機嫌極まりない亨の声を聞いた恭也からは、思わず笑みを漏らした。

 

座席の灰皿で、煙草をもみ消す。

 

これで、逃げようとしている桜井に亨が罰を与えることは確かだった。

 

相手の宇宙も、無事では済まない。

 

プライドの高い亨が、一度ばかりか二度までも自分のもとから逃れようとしている桜井を以前と同じように扱うとは思えなかった。

 

よくても海外に売り飛ばされるか。

 

悪ければ、警察の行方知れずリストに載ることもある。

 

恭也は、思わず声を上げて笑った。

 

「俺に任せるということは、煮るなり焼くなり好きにしろということだよな?」

 

そして独り言を言う。

 

そのとき、スーツに入れたばかりの携帯が鳴った。

 

二人の見張りに残してきた男からだった。

 

『桜井と男は・・・あのまま近くのラブホテルに入りました。今、ホテルの前にいますが、どうしますか?二人とも急いで捕まえますか?』

 

見張りの男が少し苛ついた口調で言う。

 

自分だけ見張りに取り残されたことが不満なのだ。

 

恭也はもう一本煙草を口に銜えた。

 

隣の男が、シュポッとライターの火を点ける。

 

「いや、二人を捕らえるのはもう少し時間が経ってからだ。二時間後に人数をそっちに回すから、捕り物はそれからだ。お前はそれまでそこでじっとしてろ」

 

『・・・分かりま・・・』

 

少し不満そうな男の声を最後まで聞くことなく、恭也は携帯を切った。

 

ちゃんと、既成事実というものをつくってしまわないといけないのだ。

 

あの二人はまだ本当の意味で結ばれていない。

 

恭也が見たところ、ウルトラスペシャルマッサージで宇宙を喜ばせただけの関係なのだ。

 

互いに愛し合っているのにまだ結ばれていないのはかわいそうだ。

 

そうだろう?

 

と、意地悪い自問自答を繰り返してからニヤッと笑った。

 

やはり愛し合っている者同士、冥土の土産に結ばせてやるのが人情ってもんだろう。

 

口には出さないが、恭也は内心そう思っていた。

 

本来の恭也の立場なら、二人が結ばれる前になんとしても捕らえ、亨の前に引き連れていくのが役目なのだが、恭也はあえてそれをしなかった。

 

桜井が宇宙を抱いてしまえば、他の男の分身をしゃぶったことが分かれば、プライドが高く自己中心的な亨のことだ、きっと桜井を切って捨てる。

 

そう踏んだのだ。

 

今二人を捕らえても、亨の怒りを誘うのにはまだ足りなかった。

 

やはり、二人が愛し合っているという既成事実がどうしても必要だった。

 

恭也の計画を成功させるためには。

 

「・・・これも宇宙とかいう世間知らずの教師のおかげだな。いいタイミングで桜井の前に現れてくれたよ。だが桜井がああいうタイプの男に弱いとは知らなかったな」

 

余裕が出てきたのか、恭也は煙草をうまそうに扱いながら背もたれに身体を預けた。

 

だがすべて計画どおりに事が運んで、桜井を亨の前から排除することができたとして、亨の父親にはなんと報告をしたらいいのだろうか?

 

ありのままを報告するわけにはいかない。

 

桜井の身辺に気を使っていなかったとして、自分までとばっちりが来ないとも限らないからだ。

 

大物政治家である亨の父親は、恭也の組と裏で繋がっている。

 

もともと、桜井を気に入って自分の下半身の世話をするように時間をかけてしつけたのは父親の方なのだ。

 

桜井を息子に譲ったとはいえ、まだ情があるのは、亨と同じと考えた方がいい。

 

恭也は真面目な顔でそんなことを考えながら、備え付けの灰皿で煙草を消した。

 

「先に、先生のお耳には入れておいたほうがよさそうだな」

 

恭也はそう呟くと、亨の父親に電話を入れるべく携帯を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 29

宇宙は、恭也に命令されたチンピラたちに連れ去られるところだった。

 

五人のチンピラたちに手や肩を押さえつけられている宇宙の前に飛び出した桜井は、そのまま一人の男の顔面を殴った。

 

ガツンッと鈍い音がする。

 

「・・・・・・?」

 

木々の間から急に出てきた桜井の拳をまともに顔面に受けた男は、そのまま地面に倒れた。

 

そこは、人通りの少ない公園の中の公衆トイレの近くだった。

 

「てめーっ!何しやがるっ!」

 

仲間が殴られたことに腹を立てたチンピラの一人が、殴った男に挑みかかろうとする。

 

だがその男が桜井だと知ると、すぐに躊躇して足を後退させた。

 

桜井が亨にとって特別な情婦であることを、恭也だけでなくチンピラたちも知っていた。

 

「さ、桜井さん?」

 

宇宙も、桜井がチンピラを殴ったことに驚いて声を上げる。

 

「宇宙を離せ、恭也」

 

桜井は、恭也に向かって凄むように言い放った。

 

黒いスーツに黒いサングラス姿の恭也は、吸っていた煙草を桜井に投げつけ、フーッと大きく息を吐いた。

 

「いいんですか?こんなことをして・・・。あの方が知ったらどういうことになるか・・・」

 

「脅し文句はいい。あの方が知っているからこういうことをしてるんだろう?」

 

と、いつもの優しいイメージとまったく違う桜井が、全身から怒りの覇気のようなものを立ちのぼらせながら重々しく言う。

 

まるでヤクザの組長のような威圧感に圧倒されたチンピラたちは、宇宙の腕や肩を掴んでいた手を離し、慌ててその場から後退した。

 

ジリッと、桜井が恭也に近づく。

 

「もう一度言う。宇宙を離せ、恭也」

 

桜井の声も、いつもの穏やかで優しい声ではなかった。

 

低くて威厳があって、まるでその声は別人のようだった。

 

身体が自由になった宇宙は、唖然として桜井に見入った。

 

そこにいる桜井は、宇宙の知っている桜井ではなかった。

 

亨という一人の男に囲われている、桜井遼一だった。

 

「・・・亨様に話しますよ?」

 

ニヤッと笑って、恭也が言う。

 

その笑いにはさまざまな意味が含まれていたが、桜井は頭から無視した。

 

恭也の思惑など、考えている暇などなかった。

 

今は一刻も早く、宇宙を助け出さなければ。

 

「話したければ話せばいいい。それがお前の仕事なんだろう?」

 

皮肉をたっぷりと込めた言葉は、恭也の癇に障ったようだった。

 

ピクッと、綺麗な眉が動いたのを桜井は見逃さなかった。

 

「後でどうなっても知りませんよ。あなたも・・・その男も・・・」

 

恭也が、冷淡な瞳を細めて言う。

 

桜井はその言葉に答える代わりに、宇宙の腕をグイッと自分のほうに引っ張った。

 

腕の中に宇宙を抱いて、桜井は恭也を睨みつける。

 

「何か言うことがあるなら、私に直接言え。宇宙に手を出すことは許さない。それがたとえ・・・亨様でも・・・」

 

ついに言ってしまった。

 

と、桜井は心の中で思った。

 

決して口に出しては言ってはいけない言葉だったのに、最も危険に満ちている言葉だったのに。

 

これでは恭也に命令している亨に対して、喧嘩を売っているようなものだった。

 

いや、実際こうなってしまったら喧嘩だった。

 

あーだこーだと、理屈をこねている場合ではないのだ。

 

愛する者は命をかけて守り通す。

 

ただそれだけだった。

 

それがどんなに馬鹿げて見えようが、くだらないことに思えようが、桜井にとってはこの世の中でもっとも貴いことだった。

 

とても大切なことに思えたのだ。

 

「馬鹿か、お前は?そんな男のために、今までの自分を捨てるのか?この街で大きな顔をして歩いていられるのも、亨様のおかげだろうが。ええ?」

 

恭也は、ペッと地面に唾を吐きながらそう言った。

 

まるで汚い者でも見たかのようなやり方だった。

 

それを見ていた桜井の感情が、剥き出しになっていく。

 

「馬鹿で結構だ。私は今の人形のような暮らしよりも、危険と背中合わせだが宇宙を愛するほうを選ぶ。亨様の囲い者なって十年。それは私が望んだものではない。もういい加減、私を自由にしてくれてもいいはずだ」

 

と、桜井が宇宙を背中に庇うように言うと、恭也はふふっと意味ありげに笑った。

 

「言ってくれるね。格好いいよ。まったく。だがな、お前の意思など関係ないことをまだ分かっていないのか?お前はあのときから金で買われた囲われの身なんだ。亨様の父親があのときお前を買っていなかったら、今のお前はもっと悲惨な人生を歩んでいたんだぞ。それくらい分かっているだろう?」

 

一見綺麗な顔をしている恭也がサングラスを外しながらそう言って桜井の顎をきつく掴む。

 

はっきりとは分からないが、うまく恭也に乗せられているような気がする。

 

なぜだか分からないが、桜井は不意にそう思った。

 

だが、今は考えているときではなかった。

 

その指を乱暴に振り払った桜井は、これからの自分の人生に挑むようにはっきりと言い放った。

 

「私は、私の人生を歩みたい。もう誰にも縛られることなく、誰の命令も受けることなく、自分の好きなように生きていきたい。これから帰って、亨様にそう伝えてくれ。桜井遼一は自由になることを望んでいると・・・」

 

「・・・・・本当にいいんだな?俺はそのとおりに伝えるぞ?」

 

少し間を置いてから、新しい煙草に火を点けながら恭也が聞く。

 

その声には情のようなものは通っていなかった。

 

むしろ、事の成り行きを楽しんでいるかのような響きがあった。

 

恭也の密やかな想いに気づいていた桜井は、これから自分の身に降りかかるであろう災いを想像しながら言った。

 

「伝えてもらって結構だ。私は、もう亨様の言いなりにはならない。宇宙を愛し抜くと決めた」

 

「いい覚悟だ」

 

恭也はそう言い捨てるとサングラスを掛け、踵を返した。

 

手で合図して、チンピラたちを引き揚げさせる。

 

桜井は、公園の林の中に消えていく恭也の後ろ姿を見つめながら、宇宙の身体を抱きしめていた。

 

「桜井さん?」

 

しばらくして、宇宙がそっと桜井を呼ぶ。

 

さまざまなことを想像していた桜井は、はっと我に返って宇宙の顔を見つめた。

 

宇宙の薄茶色の瞳には、涙が溢れていた。

 

「桜井さん・・・大丈夫なの?あの人にあんなこと言っちゃって・・・大丈夫なの?本当はまずいんでしょう?ごめんなさい、僕のために・・・。僕があいつらに捕まったりしなければ・・・桜井さん・・・・・」

 

宇宙は、桜井がまずい立場に立たされたことを感じ取っていた。

 

そして桜井がそういう立場に追い込まれたのは自分のせいだと思い込んでいた。

 

間違ってはいないが、これは桜井自身が選んだ答えである。

 

決して宇宙のせいではないのだ。

 

「違いますよ、宇宙。これは私自身の問題なんです」

 

「でも・・・あの黒いスーツの人、すごく怒ってたよ。綺麗だけど、ものすごく冷たい目をしてた。何かとても怖いことをしそうな・・・そんな感じがしたけど・・・」

 

桜井はそんな宇宙を抱きしめながら、落ち着かせるようにそっと髪を撫でた。

 

「・・・今までの私はずっと死んでいたんです。宇宙と出会って、生き返ることができました。これからどんな苦難が待ち受けていても、私は決して後悔はしませんよ。それより、宇宙のほうこそ、私と出会ってしまったことを後悔させてしまうかもしれません。私と出会わなければよかったと・・・」

 

と、言った桜井の唇を、宇宙を背伸びをするようにして塞いだ。

 

決して上手なキスじゃなかったけど、宇宙の思いが十分に伝わるキスだった。

 

「僕は後悔なんてしていない。桜井さんと出会って・・・好きになることができて本当によかったと思ってる。ほんとだよ」

 

宇宙は、桜井の胸に顔を埋めて熱く告白する。

 

その告白を聞きながら、桜井は亨の束縛から逃れる覚悟を決めた。

 

「宇宙に話しておきたいことがあります。私の過去の話です」

 

桜井の真剣な言葉に、宇宙はただ黙って頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 28

「宇宙!?」

 

学校からの帰宅途中、誰かに呼ばれた。

 

振り返ってみると、そこには桜井が顔に汗を光らせて立っていた。

 

「さ、桜井さんっ!」

 

まさか桜井がいると思っていなかった宇宙は、思わず大声を出す。

 

「しぃ・・・静かに」

 

そんな宇宙の口を手で塞いだ桜井は、人通りの少ない路地に宇宙の身体を連れ込んだ。

 

注意深く辺りを窺う。

 

「話があるんです」

 

「ぼ、僕も・・・。話があってずっと連絡を取っていたんです。でもなかなか桜井さんがつかまらなくて・・・。でもよかった・・・」

 

と、嬉しそうにしゃべり始めた宇宙の口を、桜井の手がもう一度覆う。

 

「そのまま静かにして・・・聞いてほしい。実は・・・私のことはもう忘れてほしいんんです。何もかも・・・今までのことはすべてなかったことにしてください」

 

「・・・・・・!?」

 

突然の桜井の言葉には、切羽詰まった緊張感があった。

 

いつもは優しい言葉遣いなのに、今日は少し様子が違う。

 

何かあったのだろうか?

 

唇を塞いでいる手が、少し震えているような気がする。

 

「・・・でも・・・」

 

と、わけを聞こうとした唇を、もっと強く押さえて桜井が辺りを見渡す。

 

幸い、暗くて細い路地には二人の他には誰もいなかった。

 

「とにかく、私のことは忘れるんです。もう二度とかかわってはいけません。 マッサージルームにも二度と来ないでください。いいですね?」

 

否定を許さない桜井の言葉。

 

宇宙は、何かとんでもない事態に桜井が巻き込まれたのだと察した。

 

そうでなければ、桜井ほどの男がこうも取り乱したりしないはずだ。

 

いったい何が桜井を追い詰めているのか?

 

そういえば、ホテル街でチンピラに絡まれていたとき、桜井が助けてくれたけど、チンピラたちの様子が少し変だった。

 

桜井の顔を見知っているような様子だった。

 

驚きと恐怖と不審さが入り交じったような顔をしていた。

 

あのときのチンピラたちと何か関係があるんだろうか?

 

もしかして、こういう状況に追い込んでしまったのは、自分のせいなのではないだろうか?

 

宇宙はいても立ってもいられず、桜井の手を振りほどいた。

 

「もしかして、あのときのチンピラたちと何か関係があるんじゃないですか・・・?」

 

宇宙の問いに、桜井はピクッと眉を動かした。

 

やっぱり。

 

やっぱりそうだ。

 

あのときの街のチンピラたちと桜井さんは、何か関係があるのだ。

 

「どういうことなのか説明してください。桜井さんを忘れろなんて・・・そんなのできません。だって僕・・・僕・・・桜井さんを好きなんですから。愛しているんですから」

 

言ってしまった。

 

ついに言ってしまった。

 

こんなところで、こんな場面で告白するつもりじゃなかったのに。

 

つい勢いで言ってしまった。

 

だが気持ちは本心だし、決していい加減な気持ちで言ったつもりはなかった。

 

時と場所はまずかったけど、それが宇宙の本当の気持ちだった。

 

桜井の端正な顔が、驚いたように宇宙を見つめる。

 

そして両手が伸ばされ、それはギューッと思いきり宇宙の身体を正面から抱きしめた。

 

分かってはいた。

 

宇宙の気持ちは知っていた。

 

だが、こんな緊迫した場面で突然愛を告白された桜井は、今はとてもまずい立場にいることも忘れて、聞き入ってしまっていたのだ。

 

純真で真心のこもった愛の告白。

 

時や場所なんて関係なかった。

 

十年間を空虚に過ごしてきた桜井にとって、花束やプレゼントを用意しているわけではない宇宙の告白、その精いっぱいの愛の言葉は心に衝撃を受けるぐらい嬉しかった。

 

愛している。

 

ギュッと身体を抱きしめたまま、ついそう呟いてしまいそうになる。

 

「宇宙・・・」

 

だがそれはできなかった。

 

自分の気持ちを言ってしまったら、もう引き返せなくなってしまう。

 

あの亨と自分との世界に、愛おしい宇宙を引っ張り込むことなってしまうのだ。

 

あの亨ことだ。

 

宇宙をどうするのか、だいたいの想像はつく。

 

きっといいように弄び、そして最後には客を取らせるために海外に売りさばく。

 

裏の社会でも顔が利く亨の取る行動は、容易に想像ができた。

 

だめだ。

 

宇宙をそんな世界に引っ張り込んではいけない。

 

宇宙は小学校の教師をしていて、こんなふしだらで淫らな世界とは別世界の人間なのだ。

 

「いけません。私は宇宙の気持ちを受け入れることはできません。だから諦めてください。好きでも、なんでもないんですから」

 

今にも宇宙の黒い瞳から視線を逸らせてしまいそうになるのを必死にこらえていた。

 

「好きでもなんでもないのに、そんなことを言われるのは迷惑です。店の客だからちょっと優しくしてあげただけなのに、勘違いされては困ります。だから店の外で会うのは嫌だったんです」

 

と、桜井が目を細めてため息交じりに言う。

 

宇宙はその瞳を見つめ、信じられないというような顔をして桜井を見つめていた。

 

「う・・・そ・・・。今のは全部嘘だ・・・」

 

「嘘じゃありません。言ったでしょう。迷惑だと。私は宇宙を店の客の一人としか思ってません・・・」

 

「嘘だよ・・・嘘。だって・・・ラブホテルで・・・あんなに愛してくれたじゃない。あんなにいっぱい、愛してくれたじゃない?あれはなんだったの?あれも商売の一つだったというの?」

 

桜井の腕の中から離れた宇宙が、今にも泣き出しそうな顔で言う。

 

宇宙にはとても信じられなかった。

 

今までの桜井の優しさと愛情が嘘だったなんて。

 

商売という名の、偽りだったなんて。

 

「・・・そうです。あのときは宇宙がチンピラたちに絡まれていたのを助けただけです。ラブホテルに入ったのは・・・ちょっとした気まぐれです。本気じゃありません」

 

胸がギューッと痛くなっていく。

 

今までいろいろな嘘をついてきたけど、こんなに胸の奥が痛くなったのは初めてだった。

 

嘘がこんなにつらいものだなんて初めて知った。

 

嘘がこんなにも心に痛みを与えるものだなんて、知らなかった。

 

この痛みを教えてくれたのは宇宙なのだ。

 

宇宙を愛したからこその胸の痛み。

 

だが桜井は、胸が詰まるようなそんな痛みに浸っているわけにはいかなかった。

 

「・・・だからもう私のことは忘れてください。私も少し、遊びが過ぎて宇宙を本気にさせてしまって・・・」

 

「もういいっ!もう何も言わないでっ!」

 

宇宙は、桜井の言葉を遮るように大声で叫んだ。

 

もうこれ以上、桜井の言葉を聞いている勇気がなかった。

 

これが桜井の本心?

 

本当に?

 

あの優しさも温かさも、自分にだけ特別に向けてくれているのかと思っていたのに。

 

自分だけは特別だと思っていたのに。

 

だから、スペシャルマッサージやウルトラスペシャルマッサージをやってくれたんだと思っていたのに。

 

あのラブホテルで一緒にプールに入って、遊んだのだって、僕を愛してくれているからだとばかり思っていたのに。

 

桜井の笑みの中には、確かに愛情があるって思っていたのに。

 

「もう・・・もう・・・いい・・・。もう・・・桜井さんなんてだいっきらい!」

 

宇宙は、大声でわめきながらそう言って、振り返って走っていく。

 

薄暗い細い路地を、泣きながら宇宙は走っていった。

 

その後ろ姿を、桜井は生身を削られるような想いで見つめていた。

 

本当は追いかけていって嘘だと言いたい。

 

今言ったことはすべて偽りで、本心は心の底から愛していると言ってあげたい。

 

だが、そんなことをしてしまったら、宇宙を自分のいる卑猥で卑劣な世界に引きずり込むことになってしまう。

 

亨は、一見クールだがとてもずる賢く、嫉妬深い。

 

亨は、愛人を何人も囲っている。

 

だが、それでも桜井を手放そうとはしなかった。

 

桜井のウルトラスペシャルマッサージは、女で欲求を満たすのが面倒なとき、亨を虜にするのだ。

 

「宇宙・・・ごめんね。本当にごめん」

 

桜井は、これでいいんだと自分に言い聞かせながら何度もそう呟いた。

 

そんなときだった。

 

桜井の耳に、走っていったはずの宇宙の悲鳴が聞こえる。

 

「ーーーーーー!」

 

桜井ははっとした。

 

「まさかーーーーー」

 

桜井は、宇宙が駆けていった路地を一目散に走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 27

「お前が提供してくれた情報は、どうやら本物のようだな」

 

マッサージルームの特別室から出て来た亨は、店の前に横づけにされていた黒いベンツの後部座席に乗り込み、隣に座っていた恭也に言った。

 

肩まで無造作に髪を伸ばしている恭也は、亨の裏の世界の側近的役割を果たしていた。

 

ダークグレーの高価なスーツに身を包んでいる亨は、短めの髪を立たせワイルドに決めていた。

 

明るいシルバーグレーのネクタイがよく似合っている。

 

「・・・・・そうですか。それで、桜井は認めましたか?」

 

亨が煙草を口に銜える。

 

恭也はライターを灯し、煙草の先端に火を点けながら何気ない顔で聞いた。

 

「いや。とぼけていた」

 

外国製の葉巻の煙をくねらせるように一服した亨が革のシートに身を沈めて言う。

 

細められた黒い瞳がとても冷たく感じられる恭也は、言葉少なめな亨の様子を窺いながら、次の言葉を待っていた。

 

「・・・・・桜井は本気なのか?」

 

ベンツが走り出し、しばらくして亨が言った。

 

「・・・おそらく。二人でラブホテルに入るところを見ましたから。それにそのホテルでアルバイトをしている男に聞いたんですが、自分のことを遼一と呼ぶようにと、相手の男に言ったそうです。桜井がその男を風呂場でマッサージしているビデオも入手しています」

 

と、いったん言葉を切ってから黒いスーツ姿の恭也は窺うように言った。

 

「・・・・・見ますか?」

 

とたんに、亨の顔色が変わる。

 

「隠し撮りしたのか?」

 

「私たちの財産の一つですので」

 

と、恭也が淡々とした口調で言うと、亨は手元のスイッチを押して窓を少し開けた。

 

葉巻の煙を外に出したのだ。

 

「そのテープは処分しろ」

 

「はい、承知しました」

 

恭也は、穏やかな口調でそう言って頭を下げる。

 

恭也の細められた瞳には冷淡さが浮かんでいた。

 

この機を逃すことはない。

 

桜井から亨を奪う、絶好のチャンスなのだ。

 

亨の寵愛を桜井から奪い去り、自分のほうに向けるチャンスなのだ。

 

絶妙な手技で亨の寵愛を受けている桜井という男を、恭也はずっと目の上のタンコブのように思っていた。

 

いつかは桜井を追い落とし、自分がその地位につけたら。

 

亨を密かに愛している恭也は、誰にも知られることなく密かにそう思っていた。

 

恭也はニヤッと笑った。

 

恭也の頭の中には、すでに桜井を追い落とすストーリーができあがっていた。

 

「それで、相手の男のほうはどうしますか?」

 

長めの髪を掻き上げるようにして恭也が聞くと、亨は忌々しそうに舌打ちをした。

 

「桜井が本気で惚れた相手がどんな男か、一度会ってみたいものだな」

 

嫉妬心だけではない、別の感情も窺える亨の言葉に、恭也は静かに『分かりました』とだけ答えていた。

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 26

「変な噂を耳にした」ウルトラスペシャルマッサージを終えた後、亨は高価な上着に袖を通しながら何気なくそう言った。

 

ベッドのまわりを片付けていた桜井は、内心ドキッとしながらも平静さを装って『何がでしょうか?』と聞いた。

 

すると身支度を整えた亨が、かなり強引に中腰になっていた桜井の顎を掴み、そのまま引き上げる。

 

「痛いっ!」

 

思わず、桜井が言う。

 

端正な桜井の顔が、苦痛に歪んでいるのを亨はまるで楽しんでいるかのように冷淡な瞳でじっと見つめていた。

 

「とぼけるのか?」

 

と、太い眉尻を上げて、不機嫌さを表している亨が聞いてくる。

 

桜井は顎を強く掴まれたまま、知らないと首を横に振った。

 

亨の切れ長の瞳がわずかに細められる。

 

そして亨の指が、乱暴に桜井の顎から外れる。

 

「まぁ、いい。お前も自分の立場ってものは知ってるはずだからな。余計な感情は抱かないことだ。俺は父親から譲り受けたお前を、そう簡単に手放したりはしないからな。それだけはよく覚えておけよ」

 

肩幅の広い背中を向けたままそう言って、亨が部屋から出ていく。

 

ドアの外には、部下が数人待っていた。

 

その中にはエリートサラリーマンのような男もいたが、中には少し危なそうな雰囲気を持っている男もいた。

 

週刊誌を騒がせ、今をときめく青年実業家の顔を持つ亨は、世間に知られることなく、裏ではかなり危ない仕事もしていた。

 

政治家である父親の後を継ぐということは、つまりそう言った危ないものも、ともに引き継ぐということなのだ。

 

桜井は、狭いマッサージルームの中でぐったりと床に膝をついた。

 

やはり知っているのだ、宇宙のことを。

 

客として来ている宇宙を特別扱いしていることを、店の誰かがチクったか、それともあのときのチンピラたちの誰かが亨にしゃべったか・・・・・。

 

どちらにしても、あの人『亨』はもう宇宙の存在に気づいていた。

 

「まずいことになった。亨がこのまま黙っているとは思えないし・・・」

 

桜井は、宇宙の屈託のない笑顔を思い出しながら頭を悩ませていた。

 

宇宙のことを亨の耳に入れたのは、おそらく側近の恭也だろうと桜井は直感した。

 

きっと、先日の街中での騒ぎもどこかで見ていたに違いないのだ。

 

恭也はこの街を徘徊するチンピラやヤクザたちの若頭的存在で、一見顔は綺麗だがとても冷酷な目をしている男だった。

 

情とか愛とかがまったく存在しない目を持つ恭也は、桜井にとっても要注意人物だった。

 

一度逃げ出したときも、恭也がいなければうまくいったのに。

 

あのときはまだ組に入ったばかりの恭也だったが、狡猾さは他のヤクザたちの中でも群を抜いていた。

 

「宇宙のことを亨の耳に入れたのが恭也なら、これ以上無理はできない」

 

桜井は、慎重に考えをめぐらせた。

 

恭也がずっと亨に対して特別な感情を抱いていたのは知っている。

 

亨に囲われている桜井の身を疎ましく思っていたのも知っている。

 

あのとき、宇宙がチンピラたちに絡まれていたとき、そこには恭也の姿はなかった。

 

やはりどこかで見ていたのだ。

 

そしてその後、宇宙と桜井を尾行し、ラブホテルに入ったのを確認したのだ。

 

あのとき、恭也の存在に気づいておくべきだった。

 

「卑怯なヤツだ。そんなことをしてまで亨に気に入られたいのか・・・」

 

桜井は、チッと舌打ちをして立ち上がった。

 

こうしてはいられない。

 

一刻も早く宇宙に会って、絶縁状を叩きつけなければならない。

 

そうしなければ、宇宙の身が危ないのだ。

 

桜井は、政治家である亨の父親が十年前にしたことを思い出していた。

 

ヤクザに札束を積んで桜井を買い取った亨の父親は、桜井の身体をいいように弄んだ。

 

ありとあらゆる快楽を覚えさせられ、また亨の父親にその快楽を与える術を学ばされた桜井は、心の底から亨の父親を憎んでいた。

 

そして同じくらい亨も憎かった。

 

自由を奪われた十年の間、心はいつも空虚だった。

 

心が満たされることなどなかった。

 

いつもいかなるときでも求められれば快楽を与える人形。

 

それが桜井だったのだ。

 

「・・・・・宇宙にもし何かあったら・・・」

 

宇宙に出会って初めて心が温かくなり、潤い、そして満ち足りたのだ。

 

宇宙を手放したくない。

 

やっと見つけた、愛する宇宙を諦めたくない。

 

だが、今の立場の自分が宇宙を守るためには、心とは裏腹な絶縁状を叩きつけるしかなかった。

 

無理に愛想づかしをすることで、宇宙を亨から守るしかない。

 

「宇宙・・・・・」

 

桜井は、シルクのオープンシャツの上に黒いジャケットを慌てて着ると、そのままマッサージルームを出ていった。

 

亨を乗せた高級外車は、もうどこにも見当たらなかった。

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 25

桜井からの電話が来ない。

 

そればかりか、マッサージの予約をしても『予約で埋まっている』とか言って、受け付けてくれないのだ。

 

プール付きの豪華なラブホテルでのウルトラスペシャルマッサージは、極楽そのものだった。

 

だがその後、桜井はどういうわけか冷たくなったような気がしていた。

 

あのときは時間が許す限りプールの中で遊んだり、何度もウルトラスペシャルマッサージをしてくれたりしたのに。

 

桜井が、またしても冷たくなってしまったのだ。

 

宇宙は、日々の忙しい学校生活に追われながらも、桜井の素っ気ない態度の原因がなんなのか知りたいと思っていた。

 

考えてみれば、親密度が増せば増すほど、どんどん桜井が冷たくなっていく。

 

普通なら、優しくなっていって当たり前なのに。

 

恋人同士なら、関係が深くなっていけばいくほど、親密さは増していくのに。

 

それとも、釣った魚には餌をやらない主義なのだろうか?

 

いいや、まさか。

 

桜井ほどの男に限ってそれはないと確信している。

 

ではどうして宇宙を避けているのだろうか。

 

ウルトラスペシャルマッサージまでしてくれる深い仲になったというのに、それと反比例するように桜井の気持ちが遠ざかってしまう。

 

どうしてなんだろうか?

 

さまざまな要因を考えながら、宇宙は子供たちと忙しい毎日を過ごしていた。

 

今日は早く帰れそうだし、予約はしていないけど、ちょうど桜井のところに寄ってみようか。

 

でも嫌な顔をされたり、粗略に扱われたらどうしよう。

 

「・・・・・・本当に忙しいのかもしれないし、もう少し様子を見てみよう」

 

宇宙は冷たくされたとき、どうしていいのか分からなくてそんなふうに考えるようにした。

 

きっと仕事が忙しいんだと。

 

「ねぇ、せんせ。体育館で鬼ごっこしようよ」

 

お昼休み、キラキラと瞳を輝かせた子供たちが宇宙の手を引っ張る。

 

「よし、鬼ごっこやるか?先生が鬼になるからね」

 

「ぎゃぁぁーーーーーっ!先生が鬼だぁぁーーーーーっ」

 

「わーい、わーい。先生が鬼だぁぁーーーーー!」

 

子供たちが、きゃーきゃーと騒ぎながら体育館へと走っていく。

 

「こら、走っちゃだめでしょ!?危ない・・・危ないって」

 

宇宙が叫んでも子供たちの無邪気に走り回っている足を止めることはできなかった。

 

だが、そんな子供たちの足が、体育館の入り口でピタリと止まる。

 

体育館の中には国ちゃんとその仲間たちがいて、すでに体育館を占領していた。

 

ドッヂボール用のボールを蹴って、キックボールをしていた。

 

体育館の中でのキックボールは禁止されているにもかかわらず、国ちゃんたち悪ガキトリオは、一年生の分際で我が物顔で遊んでいる。

 

三年生の集団もそこにいたが、国ちゃんが怖いので何も言わず隅のほうで見ている。

 

宇宙は国ちゃんや他の悪ガキ集団を呼び寄せ、体育館の中でキックボールをしてはいけないと注意した。

 

だが宇宙の言葉など、国ちゃんは全然聞こうともしない。

 

ボールを思いきり隅に蹴って、挙げ句の果てには宇宙に向かってこう言った。

 

「惚れたヤツのことでも考えてボーッとしていると思ったら、今日は元気じゃん。それとも、元気に見せてるだけとか?」

 

まるで、中学生か高校生のような言い方である。

 

本当にこの子は小学一年生なんだろうかと疑問に思いながら、国ちゃんの肩を掴んだ。

 

「国ちゃん!いい加減にしないとご両親に学校に来てもらいますよ」

 

と、宇宙が言うと、国ちゃんは不気味な笑顔でニタッと笑った。

 

「いいよ、来てもらってよ。僕の両親を呼べるものならね」

 

とて自信ありげな顔で、国ちゃんが言う。

 

宇宙は小学一年生とは思えないその笑顔を見てなんだかとっても嫌な予感を感じていた。

 

だがまだその予感がなんなのか、宇宙には分からなかった。

 

そしてその予感を宇宙が知るには、まだ少しの時間を要することになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 24

そんな空虚な日々の中、宇宙と出会った。

 

出会った瞬間、夢も希望もとうの昔に忘れてしまった荒んでいた桜井の心に、潤いが戻ったのを確かに感じたのだ。

 

まっすぐで純粋で、人を疑うことを知らない宇宙の綺麗な瞳。

 

それは、ずっと以前に自分が失ったものだった。

 

見た目だけ、綺麗に着飾っている人間は大勢いる。

 

嘘偽りで、自分を覆っている人間もたくさんいる。

 

だが、心の美しさが表面に表れる瞳が、あんなに澄んでいて綺麗な人間はそうはいなかった。

 

現在の東京では、もう滅多にお目にかかれない。

 

そんな瞳を持つ宇宙に出会ったときは、桜井はずっと忘れていた熱くたぎるものを思い出した。

 

亨とその父親の権力に首根っこを押さえられてきた桜井が、初めて胸をときめかせたのだ。

 

運命の出会いがあるのなら、まさしくそうだと思った。

 

宇宙の足の裏をマッサージしながら、身体に優しく触れながら、桜井は心の中に湧き上がってくる何かを感じていた。

 

それがなんであるか、桜井はすぐに理解した。

 

遠い昔の自分。

 

そして、命をかけても悔いはない、愛だと思った。

 

今の自分のこんな気持ちを亨が知ったら、きっとひどい目に遭う。

 

強欲で権力をほしいままにしているわがままな亨は、自分だけじゃない、宇宙にまでも魔の手を伸ばすに違いないのだ。

 

金に物を言わせ、街のチンピラたちを動かし、宇宙を裏の世界に葬ってしまうことだってできるのだ。

 

父親の政治家も、ヤクザと繋がりがあり、亨自身も金のためだったらなんでもやる危ない連中を何人もそばに置いている。

 

亨の所有物である自分が、他の誰かに恋心を抱いたと知ったら、亨はきっと・・・・・。

 

「だめだ、やっぱりまずい。宇宙を愛することだけは避けなければ・・・・・」

 

まだ開店前の店内で、ソファに腰を下ろして一人で考え込んでいた桜井は、居ても立ってもいられない様子でソファを立った。

 

ラブホテルでの、ウルトラスペシャルマッサージ事件から、今日で一週間が経っていた。

 

この一週間の間、宇宙からは何度も店に電話があった。

 

マッサージの予約はもちろんのこと、個人的に外で会いたいという内容のものもあった。

 

だがそのたびに桜井は丁重に断り、予約もいっぱいだと言って断っていた。

 

予約はいっぱいだったが、無理に入れようと思えば入るのに、桜井は入れなかった。

 

ここでまた宇宙に会ってしまったら、今度こそ本当に本気になってしまう。

 

本気で愛したいと思ってしまう。

 

スペシャルマッサージやウルトラスペシャルマッサージでは済まなくなるのだ。

 

宇宙のすべてを自分だけものにしてしまいたいと、望んでしまう。

 

「最初からスペシャルマッサージなんてするべきじゃなかったんだ」

 

激しい後悔の念が、桜井にため息をつかせていた。

 

店には他のマッサージ師たちが次から次へと入店していた。

 

もうすぐ開店時間である。

 

今日は、亨が店にやってくる日だった。

 

「桜井さん。亨様からお電話です」

 

開店前の電話を受けた女性が、コードレスホンを手渡す。

 

桜井は、ドキドキする心臓を押えるようにして受話器を耳に当てた。

 

「はい、桜井です」

 

『開店前に行く。今日は疲れていてとても機嫌が悪い。だからいつもよりいっそう念入りにやるんだぞ。いいな?』

 

亨の声には反論を許さない支配的な響きがあった。

 

桜井が、ギュッとコードレスホンを握りしめて『はい』と返事をする。

 

亨の父親から桜井という最高のマッサージ師をもらい受けた亨は、何か嫌なことがあって機嫌が悪くなるといつも来るのだ。

 

そして桜井のウルトラスペシャルマッサージを十分に堪能して、生気を取り戻してから家に帰るのだ。

 

亨の家は田園調布にあり、慎み深く美しい妻と小学生になったばかりの男の子がいた。

 

家ではいい父親でありいい夫であると、噂で聞いたことがあった。

 

来季の総選挙では父親と同じ道を辿るべく、参議院議員選に出馬することが決まっていた。

 

強力なバックがいるのだから、当選するのは確実だった。

 

裏では一人の男の運命を大きく変えてしまう人身売買のような汚いことをしておきながら、表の顔では青年政治家を装うのだ。

 

そして密かに愛人を何人か囲っている。

 

桜井は、電話を切るとまたため息を漏らした。

 

宇宙の存在が、傲慢で身勝手な亨に知られてしまったら、本当に殺されてしまうかもしれないのだ。

 

なんとしても隠し通さなければ。

 

桜井は、いつもの男らしく凛々しい顔で、仕事に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 上 23

桜井は十八歳になったばかりだった。

 

高校を卒業したばかりの桜井は、夢を求めて新潟から東京に出てきたばかりだった。

 

田舎では見慣れない人込み。

 

ファッショナブルで賑やかな都会。

 

溢れるネオン。

 

ファッションモデルのように美しい人たち。

 

目に映る何もかもが、桜井には新鮮だった。

 

貯金でアパートを借りた桜井は、働き場所を求めて新宿の街中を歩いていた。

 

昼間の若者の活気に満ち溢れた、夢が叶う新宿とは違い、夜の新宿は一歩間違えれば危険と背中合わせだった。

 

だが桜井は、そんなことは知らなかった。

 

ネオンに誘われるままに夜の新宿を歩き回り、ある一軒の店の前で立ち止まった。

 

品のよいダークレッド色の看板が桜井の目に入ったのだ。

 

看板には、一人でも気軽に入れるカウンターバーと書かれている。

 

まだお酒の味も十分に知らなかった桜井だが、好奇心が店のドアを開けさせていた。

 

「いらっしゃいませ」

 

華やかな店内のカウンター奥から聞こえてくる、女性の声。

 

ジーパンとTシャツ姿の桜井は、カウンター右端に座った。

 

頼んだ物はビールと軽いおつまみ。

 

だが差し出されたお勘定を見て、 目が飛び出るほど驚いた。

 

十万円と書かれている。

 

しまった、ここはぼったくりの店なんだと気づいたときには もう遅かった。

 

こんな大金は持っていないと言うと、店の奥からチンピラ風の男たちが出てきて、店の裏路地に連れていかれた。

 

そしてそこではひどく身体中を殴られ、気絶してしまう。

 

この出来事が桜井の今後の人生を大きく変えたのだった。

 

意識を取り戻した桜井は、真っ暗な倉庫のようなところに転がされていた。

 

埃と異臭がする倉庫の中に三日間も放置されていた桜井は、全身がガタガタと震えていた。

 

四日目の朝、倉庫のドアが開いた。

 

やっと解放される。

 

そう思った桜井の前に、今後の運命を左右する人物が立っていた。

 

「・・・・・なるほど。お前の言うとおり、なかなかいい顔をしている。顔を殴らなかったのは、値段が落ちると考えたからか?知能犯だな。まぁ、いい。お前の言い値でいい、買おう」

 

六十歳を超えたスーツ姿の威厳のある男が、ロープで縛られている桜井を見て言った。

 

桜井の全身を殴ったチンピラたちは、その男から札束をもらうとペコペコと頭を下げて車に乗ってどこかに行ってしまった。

 

「おい、車に乗せるんだ」

 

スーツ姿の男が、低い声で言う。

 

命令されたスーツ姿の若い男たちが、桜井の両腕を縛っていたロープを解いて、黒い外車の後部座席に乗せた。

 

「あ、あの・・・?」

 

わけが分からない桜井は、若いスーツ姿の男たちにおずおずと聞く。

 

だが誰も、何も答えなかった。

 

唯一桜井の問いに答えたのは、チンピラたちに大金を渡していたあの男性だった。

 

白髪交じりの頭。 太い眉。厚い唇。太い首と太めの体格のその男性は、桜井の隣に乗ってこう言った。

 

「お前を三百万で買った。今日からお前は私のものだ。私に奉仕する術を学び、私を喜ばせるんだ。いいな?」

 

なんのことだかさっぱり分からない。

 

「つまりはこういうことだ」

 

と言うなり、高価なスーツを着ている男は強引に桜井の顔を自分の股間に押し当てた。

 

下ろしたファスナーの中から、勃起している男自身が顔を覗かせる。

 

「これをしゃぶるってことだ」

 

白髪交じりの男が、決して逆らうことを許さない命令口調で言った。

 

桜井は驚きたじろいだが、またあの真っ暗で異臭が漂う倉庫の中に戻されるのだけは嫌だった。

 

桜井は、意を決して男の分身をのみ込んだ。

 

男が、満足そうに『うっ』と呻く。

 

そして桜井の髪をきつく掴みながら言葉を続けた。

 

「これからいろいろなことを学ぶんだ。どうすれば私が喜ぶのか。口で奉仕するにはどうすればいいのか。手で感じさせるにはどうすればいいのか。しっかりと学ぶんだ。いいな?」

 

桜井は男の冷たい言葉には逆らえなかった。

 

涙がツーッと頬を伝ったのを感じた。

 

涙の味と男の先走りの味が混じり合ったこのときの味を、桜井は一生忘れることはないと思った。

 

それから桜井は、さまざまなことを学ばされた。

 

桜井を買った男は、実は大物政治家だった。

 

男は桜井の口や手を使っては快楽を貪った。

 

桜井は、何度も逃げようと試みた。

 

そして一度だけ、見張りの目を潜って逃げたことがある。

 

だがそのときはあっという間にチンピラたちに捕まり、その後はひどい拷問を受けた。

 

その拷問の苦痛が桜井を二度と逃亡には駆り立てなかった。

 

桜井は、用意された部屋から逃げ出すことを諦めた。

 

男の世話をするようになってから一年後、桜井は男から解放された。

 

というよりも、男が銀座のクラブの女を囲ったのがきっかけだった。

 

桜井はこれで解放される、そう思い喜んだ。

 

だが実際は違っていた。

 

男の息子である青年実業家が、桜井をもらい受けたのだ。

 

桜井はその日から、青年実業家である『大江原亨』の下半身の世話係として働くようになっていた。

 

男を抱く趣味はなかったものの、亨は桜井が覚えたスペシャルマッサージやウルトラスペシャルマッサージをとても気に入っていた。

 

女を抱くのに飽きたとき、何か気に入らないことがあったとき、亨は桜井を呼び出し、マッサージをさせ快楽に酔いしれた。

 

父親のときとは違い外で働くことも許され、監禁生活からやっと抜け出せたとはいえ、桜井は亨の所有物であることには変わりはなかった。

 

亨から呼び出しが来たときや亨が店にやってきたときには、快感の極みであるウルトラスペシャルマッサージを施して極楽の世界に誘っていくのが桜井の本当の仕事だったのだ。

 

今勤めているマッサージルームも、実は亨が経営していた。

 

以前に一度だけ、もう自由にしてほしいと訴えたことがあったが、そのときは街のチンピラたちに死ぬほど殴られた。

 

顔は殴らず、身体を長時間にわたって殴られ続けたのだ。

 

肋骨や鎖骨を折るほどのひどい怪我を負った桜井は、それから二度と亨に自由にしてほしいとは言わなくなった。

 

そしていつの間にか十年が過ぎ、桜井は心の底から人を愛することを知らないまま毎日を過ごしていた。