東京えっちナイト 1

今日は、心と身体のリフレッシュマッサージ『ラベンダー』のオープン日だった。

 

天気は快晴。

 

小春日和である。

 

ラベンダーの店長は、遼一。

 

そして店員は宇宙だった。

 

教師を退職し、マッサージの勉強をして半年の間に、宇宙は足裏マッサージと全身マッサージを完璧に習得していた。

 

スペシャルマッサージとウルトラスペシャルマッサージは教えてもらっていなかったが。

 

「宇宙、いよいよだね」

 

「ほんとに、いよいよオープンだね。僚一」

 

二人は、白いシルクのシャツに黒いスラックス姿で自分たちの店の前に立った。

 

都心から少し離れたオフィス街に本日オープンする二人の店は、カーテンで仕切ったベッド二つと、足裏マッサージ用のチェアが三つ、首から肩をマッサージするために開発されたマッサージチェアが二つ、そして小さな待合室があるだけの、本当にこぢんまりとした店だった。

 

だが正真正銘、二人の店であることに変わりはない。

 

遼一が密かに貯金してきたわずかな蓄えと、宇宙の貯金を合わせて、足りない分は銀行から借金しての運転資金だった。

 

そしてやっと見つけたのが、このラベンダーの店である。

 

「それにしても銀行がよくお金を貸してくれたよね?」

 

不意に、宇宙が言った。

 

確かにそのとおりで、なんの担保もない二人が融資をお願いに行っても絶対に断られると思っていたのに。

 

店を出す大半の金額の融資を、たった一言で引き受けてくれたのだ。

 

これには、宇宙も遼一も驚いてしまった。

 

「もしかしたら・・・・・紅林組が後ろで動いていたりして?」

 

遼一が、不機嫌そうな顔で言う。

 

半年前のあの一件から、すっかり遼一の跡目のことを諦めたと思っていたのに、父親である紅林組の組長は何かにつけて遼一の周りをうろうろとしていた。

 

『何か困ったことがあったらいつでも言ってきなさい』

 

組長はたった一度だけそう言って、遼一の前から消えていく。

 

実の父親なのだし会いに来てもらっても迷惑というほどのものではなかったが、やはり遼一は困ってしまっていた。

 

もう二度と会うこともないと思っていたのに。

 

それに紅林組なんていう組織を引き継ぐつもりもまったくないし。

 

宇宙と二人で小さなマッサージの店をオープンさせて、そして一生幸せに過ごせればそれでいいと思っているのに。

 

「僕もそう思うけど・・・」

 

「やっぱりな」

 

「でも、別にいいじゃん。実の父親なんだし、この際甘えちゃえば  ねっ?」

 

と、宇宙がニコッと笑って言う。

 

その屈託のない笑顔を見て、心の中にモヤモヤを抱えていた遼一の気持ちが一気に晴れたのを感じた。

 

やっぱりどんな時も、宇宙の笑顔が一番である。

 

変な思惑など一気にどこかに吹っ飛んでしまう。

 

宇宙もいろいろとあってやっとここまできたのだ。

 

半年前のあの一件から、一番思い悩んできたのは宇宙なのに。

 

どうしてあんな純粋な笑顔ができるのだろうか。

 

恭也や亨にいいように道具で弄ばれ、自尊心を粉々に打ち砕かれたはずなのに。

 

心配する遼一に対し、宇宙はまるで何事もなかったかのように優しく笑ってこう言ったのだ。

 

『大丈夫、大丈夫。こんなことぐらい平気だって。遼一の十年間に比べたら、蚊に刺されたようなもんだって』

 

遼一はその一言を聞いて、宇宙を思いきり抱きしめた。

 

そして思わず声を上げて泣いてしまったのだ。

 

あれから半年。

 

亨も恭也もすっかり影を潜め、竜胴組も藤堂四代目の命令で解散に追い込まれたと風の噂で聞いた。

 

ヤクザ渡世のことに詳しくない二人だったが、そんな噂を耳にすると、てっちゃんと丸君を思い出す。

 

あれから一度もてっちゃんと丸君には会っていなかった。

 

というよりは、二人ともどこにいるのか分からなかった。

 

宇宙を助けてくれたホテル街の裏路地のダンボール小屋を捜し回ったが、そこには二人の姿はもうなかった。

 

他のホームレスの住処も捜し回った。

 

一言でもいいから、どうしてもお礼が言いたかったのだ。

 

だが二人は、半年前から忽然と姿を隠してしまっていた。

 

「てっちゃんと丸君にも見せたかったな、この店。きっと喜んでくれると思うんだ」

 

宇宙が、二人を思い出すように言った。

 

遼一も、淡いラベンダー色の店を見上げて感謝するように言う。

 

店の周りには開店用の花が飾られていた。

 

この開店を祝う花輪も、実は遼一の父親から贈られたものだった。

 

最初は嫌がって飾らないと言い張っていた遼一だったが、宇宙の説得によってここに飾られることを許されたのだ。

 

立派な花輪は、豪華な花々で埋め尽くされ、狭い店を取り囲むようにいくつも並べられていた。

 

そのおかげもあってか、通りを通るサラリーマンやOLたちが、何事かと店を覗いていく。

 

「ああ、そうだな。本当に不思議な二人だったよ。突然現れて私たちを助けてくれて、そして突然消えてしまうんだから」

 

「ほんと、まるでスパイダーマンだよね。でもてっちゃんと丸君は一緒にいると思うんだ。それにこの都会のどこかにいる。絶対にいるって」

 

宇宙の言葉に遼一も頷いた。

 

そしてそろそろ店のオープンの時間がやってくる。

 

今日は初日ということもあって、予約のお客様は三名だけだった。

 

だがオフィス街にあるのだから、お昼休みとか結構混みそうな予感がする。

 

「よし、仕事だ。頑張ろう」

 

「はい、店長♡」

 

宇宙は嬉しそうにそう返事をすると、遼一と一緒に自分たちの店に入っていった。

 

『ラベンダー』オープンの初日は、こうして幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京スペシャルナイト 下 24【最終回】

遼一は肩の傷がすっかり癒えると、父親と対面していた。

 

紅林組の組長である父親は、想像以上に年老いた老人だった。

 

白髪頭、皺が深く刻まれた顔、そして心臓に病を持つ身体。

 

自分を殺すように命じた組長の正妻には会わなかったが、末期のガンで病院に入院していると聞かされた。

 

母や養父母たちを殺すように命じた正妻には、恨みや憎しみを抱いていたが、死の床にあると聞いて、その恨みつらみが消えていくのを感じていた。

 

人間はいつか死ぬのだ。

 

どんなに高い地位に上がろうと、どんなに大物政治家になろうと、いつかは死ぬ。

 

そのことが手に取るように分かった。

 

「もう、恨みや憎しみなどという感情はありません。今は宇宙と二人、静かな場所でそっと暮らしたいです」

 

都内のホテルのスイートルームで、遼一は椅子に座って言った。

 

目の前のソファには父がいる。

 

自分の横には、愛しい宇宙が寄り添うように座っていた。

 

遼一は、宇宙がいてくれれば何もいらないと思っていた。

 

巨大な組織の膨大な財産も部下たちも、広大な敷地もいらない。

 

宇宙だけがいてくれればそれでいいのだ。

 

「もう一度考えてくれ。わしがお前をどれほどの思いで捜したか・・・。きっと生きている、どこかで生きていると思い続け、捜し続け、やっと巡り合えたというのに・・・」

 

とてもヤクザの組長とは思えない弱々しい言葉に、遼一は一瞬心が揺れた。

 

もう死んでしまっていると思っていた父にやっと巡り合うことができて、情が湧かないはずがなかった。

 

一般の父親だったら、きっと涙を流して『父さん』と叫んでいたに違いない。

 

だが遼一の父親は、巨大な極道組織の組長なのだ。

 

しかも組長は、たった一人きりの息子である遼一に、後を継いでほしいと願っている。

 

遼一の人間性と極道としての素質をてっちゃんから聞いて知っている父親は、ますます遼一に後を継がせたいと望んでいた。

 

「私は生まれてから今日まで、一般人として生きてきました。途中、囲われたこともありますが、極道の世界とは無縁だと思っています。どうか他の人に組を任せてください」

 

「待て、遼一っ。よく考えるんだ。紅林組を継げば宇宙君にもいい暮らしをさせてやることができる。都内の高級マンションに住むこともできるし、欲しい物は何でも手に入れることができるんだ。男なら一度は夢見るような生活をお前は捨てるというのか?無意味だとでも言うのか?」

 

高価なスーツに身を包んでいる父親が、怒鳴るようにして言う。

 

だが、それでも遼一の決心は変わらなかった。

 

確かに、ヤクザの組長の跡目を継げば人生は百八十度変わるだろう。

 

手下の者たちは、二百人を下らない。

 

藤堂組の傘下ということもあり、四代目とは腹を割って話せる仲である。

 

遼一が望めば金も地位も思いのままだというのに、恵まれたその地位を捨てるというのだ。

 

父親は、たまらず激怒した。

 

「だめだっ!お前はわしのものだっ。絶対に手放さんぞっ」

 

と、父親が荒々しい態度に出ると、スイートルームにいた数人の側近たちが一斉に表情を厳しくした。

 

そして遼一を取り押さえようとする。

 

遼一は、おとなしくされるがままになっていた。

 

「無駄ですよ、父さん。私をどんな方法で束縛したとしても、私はあなたの言うとおりにはなりません」

 

と、遼一が言うと、父さんと初めて呼んでくれたことに感激した父が、頬に一筋の涙を流した。

 

「今・・・父さんと呼んでくれたのか?わしを父親と認めてくれるのだな?」

 

よほど嬉しいのか、握った手が震えている。

 

遼一は側近たちに肩を掴まれながらも冷静な面持ちで父を見た。

 

「あなたが生きていてくれてよかった。夢のようです」

 

「遼一・・・」

 

「ですが、そこまでです。自分の大切なものを犠牲にしてまで父さんに尽くす気にはなれません。申し訳ありませんが諦めてください」

 

と、遼一が言うと、父は大粒の涙を流して手を挙げた。

 

側近たちに、遼一を離してやるように合図したのだ。

 

自由になった遼一は、ソファから立ち上がって声を殺している父を見つめた。

 

「もう二度とお会いすることもないと思いますが、どうかお元気でお暮らしください」

 

最後にそう言うと、遼一はスイートルームを出ていく。

 

すぐに側近何人かは追いかけようとしたが、父親がそれを止めた。

 

「もういいっ。もういいのだ。追うのはやめろ」

 

「組長、しかし・・・このままでは・・・」

 

「いや、遼一の言ったとおり、無駄だ。その気のない者に何を言っても無駄なのだ」

 

組長がそう言うと、ずっと隣室で二人の様子を窺っていたてっちゃんが、姿を見せた。

 

「組長としての素質は申し分ないが、本人にその気がないなら仕方がない。潔く諦めることです。四代目には俺のほうから報告しておきます」

 

「・・・・・頼みます」

 

組長は力なくそう言って、また涙を流した。

 

てっちゃんはスイートルームを出ると、そのままエレベーターに向かって歩き出した。

 

途中で丸君と会い、一緒にエレベーターに乗り込む。

 

「どうだったの?やっぱり、だめ?」

 

丸君の問いに、てっちゃんは顔を顰めるようにして頷いた。

 

「いい極道になれるんだがなー。藤堂四代目・・・とまではいかなくても、それなりの極道になれる素質があるんだ。実にもったいない・・・」

 

「そんなこと言ったって、本人になる気がないんならしょうがないよ。宇宙と一緒にマッサージショップでも開いたほうがいいんだろう?」

 

「そのようだな」

 

エレベーターが閉まり、一階へと降りていく。

 

一階に着くと、てっちゃんは携帯を内ポケットから取り出してリダイヤルを押した。

 

出たのは、藤堂四代目だった。

 

「四代目、やはり無理でした。本人にその気はありません。紅林組の跡目相続の一件は、すべて四代目に任せるそうです。はい・・・」

 

てっちゃんが話している間、丸君はホテルのロビーを仲よく歩いていく遼一と宇宙を目で追っていた。

 

宇宙は白いタートルに白いダウンジャケットを着て、スラックスはダークグリーンだった。

 

遼一はさっきと同じ、濃紺のスーツ姿だった。

 

二人とも肩を寄り添い、楽しそうに話しては笑っている。

 

そんな二人の様子を見ていた丸君は、ふふっと笑った。

 

「幸せになれるといいな、あの二人」

 

「何か言ったか?」

 

報告を終え、携帯を切ったてっちゃんが聞く。

 

丸君はロビーから出ていく二人の後ろ姿を目で追いながら、「別に、何も」とだけ答えた。

 

「四代目はなんだって?」

 

「紅林組の跡目の件は、側近の桜庭に任せるそうだ」

 

「ふーん、ヤクザの世界もいろいろと大変なんだね」

 

「そうだ。だから俺は足を洗ったんだ」

 

「今回だけだ。また明日からホームレス暮らしに戻るさ。四代目は戻ってこいと言ってくれているが、俺は戻る気はない。三代目に一生を捧げたんだ、それで十分さ。それはそうと、亨と恭也だが、あれからずいぶんとおとなしくなったらしい」

 

と、煙草に火を点けながらてっちゃんが言うと、丸君は楽しそうに後を追いながら言った。

 

「へぇー、そうなんだ。でも父親から見放されちゃったんでしょ?政治家の夢も消えたみたいだし、かわいそうって言ったらかわいそうだよね?」

 

と、丸君が言う。

 

てっちゃんは、速足でロビーを歩きながら言葉を続けた。

 

「だがあれでよかったのかもしれないぞ。あれからあの二人、密かに付き合っているという噂だ」

 

「・・・えっ?嘘・・・?どっちが受けでどっちが攻め?やっぱり亨が攻めだよね?違うの?」

 

「さーてな。その辺は想像にお任せだ。それより、明日からはまたホームレス暮らしだ」

 

てっちゃんは、どこかさっぱりとした口調で言う。

 

亨と恭也のことで頭を悩ませていた丸君は、気分を変えたように言った。

 

「じゃ、俺もホームレスに戻ろうっと・・・。だってホームレスのほうが自由だし、てっちゃんと一緒にいられるから楽しいもん」

 

丸君の言葉に、てっちゃんはふふっと鼻で笑った。

 

「人生いろいろだからな、勝手にしろ」

 

「はーい、勝手にしまーす」

 

丸君がてっちゃんの後を一生懸命に追いながら言う。

 

ホテルの外は、少し早い雪が降っていた。

 

「明日は積もるかもしれないぞ」

 

てっちゃんと丸君は、天から降ってくる白い雪を見上げながら遼一と宇宙のことを思った。

 

その後、てっちゃんと丸君の行方を知る者はいなかった。