東京スペシャルナイト 下 6
- 2016年03月08日
- 小説, 東京スペシャルナイト
「・・・起きろ」
遼一は、聞き慣れた声に起こされて目を開けた。
目の前には、高価なスーツに身を包んだ亨がものすごい形相で立っていた。
そして亨の横には、恭也と数人のヤクザが並んでいた。
「と、亨様?」
遼一は、ベッドの上で飛び起きた。
遼一の両手の自由を奪っていたロープは、三日前に解かれていた。
だがその代わり、右足に足枷のようなものを嵌められ、ベッドから逃げられないようになっていた。
点滴の処置は昨日で終わっていた。
今は痛み止めと化膿止めの飲み薬を、食後に飲むだけとなっていた。
遼一の回復力は驚異的なものだった。
気の弱そうな医師も、遼一の銃弾の跡が日ごとに治っていくさまを見て驚いていた。
「胸を恭也に撃たれたそうだな?傷の具合はどうなんだ?」
亨は今までにないくらい怒っている様子だった。
ドアの入り口で小さく縮こまっていた医師が、震える声で病状を説明する。
その説明を最後まで聞かないうちに、すっかり腫れの引いた遼一の顔を近くで見るために、顎を掴んだ。
目の周りの腫れは引いたが、眉の上を切った部分が、赤くなっていた。
「顔は殴るなと言ってあるはずだ・・・」
亨は、そう言うなり横に立っていた恭也を厳しい表情で睨んだ。
だが恭也は、冷静な顔を崩そうとはしなかった。
「少々抵抗しましたので、仕方なく」
「仕方なくだと?なんのためにお前を雇ってると思ってるんだ?ええっ!?」
遼一の顎から離れた手が、恭也の襟元を締め上げる。
黒いスーツ姿の恭也はまったく抵抗せず、苦しげに整っている眉を歪めた。
「申し訳ございません・・・」
「申し訳ないで事がすめば、警察はいらないんだっ!」
亨の怒鳴り声が個室の病室に響く。
気の弱い医師は、その声にビクッと身体を震わせた。
白いガウンを着ている遼一も、一瞬背筋を凍らせる。
こういうときの亨の恐ろしさは、身に染みて知っている。
一度、見知らぬチンピラたちと喧嘩をして顔にひどい怪我をしたとき、亨は怒って僚一の身体に拷問を加えたことがあった。
亨は遼一の顔とスペシャルマッサージをする手を気にっているのであって、身体はどうでもいいのだから、拷問によって身体に多少の傷がついてもいいと思っていた。
遼一と喧嘩したチンピラたちはその後、恭也たちによって半殺しの目に遭わされたことは言うまでもなかった。
亨は、異常なほど遼一の顔と手に執着していた。
「手は・・・無事なんだな?」
キリキリと恭也の襟元を絞め上げながら、亨が聞く。
すると恭也は、苦しそうになんとか言葉を発した。
「は・・・ぐう・・・はい・・・」
その返事を聞いて、亨が手を緩めてやる。
そしてもう一度、ベッドの上で上体を起こしている遼一の顔をまじまじと見つめた。
「顔の傷が治ったら知らせろ。そして何がなんでも春日宇宙を探し出せっ。顔の傷が治るまでに宇宙とかいうガキを捜せなかったらどうなるか、分かってるな?」
亨は、そう言って恭也の顎をきつく掴む。
顎を掴まれた恭也は、一瞬ビクッと身体を震わせた。
こんなふうに亨が恭也に触れたことは初めてだった。
たとえ怒りの表れであったとしても、密かに亨を愛している恭也には大きな喜びだった。
「は、はい。承知しています」
目が自然と潤んでしまう。
「それと、そこの医者!顔の傷が完璧に治るのはいつだ?」
「は、は、はい・・・その・・・三日後には・・・」
「三日後だな?では三日後にまた来る。そのときは・・・不埒なことを考えた罪深さを詫びるつもりで一生懸命に口と手で仕えるんだぞ。顎が外れるまでしゃぶり続けろ。いいな遼一?」
と、亨が遼一に向かって言う。
いつもなら「はい」と心ならずも返事をする遼一だったが、宇宙との真実の愛に目覚めてしまった遼一は、今までの遼一とは違っていた。
帰ろうとしていた亨の背中に向かって「嫌です」とはっきりと言い放つ。
その言葉を聞いたとたん亨の足が止まり、ゆっくりと遼一のすぐ近くまで歩み寄った。
怒りが渦巻く黒い瞳は、少し細められていた。
「なんだと?今、なんて言ったんだ遼一?もう一度言ってみろ」
遼一の顎を掴み、亨が低い声で聞く。
遼一は顎をきつく掴まれたまま、しつかりと亨の瞳を睨みつけた。
「嫌だと言ったんです。私はもう、あなたの所有物じゃない」
遼一の瞳が、キラリと光る。
亨はおもむろに眉間に皺を寄せた。
「私に対していつからそんな口を利くようになったんだ、遼一?お前の出方次第では今回のことは水に流してやってもいいと思っていたのに。それがどうだ、ええ?チンピラにシャブ漬けにされて海外に売り飛ばされるところを救ってやった恩も忘れて、よく言うぜ」
亨は吐き捨てるようにそう言って、空いている手で遼一の左腕を掴み上げた。
「あうっ・・・」
とたんに、引き攣るような痛みが遼一を襲う。
左腕を無理やり引き上げられた遼一は、銃で撃たれた左胸の傷口が開きそうな声を上げた。
傷口は塞がってはいるが、今無理に動かしたら傷口が開いてしまう。
だが亨は、それを承知の上で遼一の左腕を強引に引っ張った。
「いっ・・・あうっ・・・・・」
「痛いか?だが、自分の立場を思い出すにはいい痛みだろう?ん?」
ギリギリッと腕を締め上げながら、遼一の耳元で亨が囁く。
意識を保つのも困難なその痛みは、決して屈しないと誓った遼一の精神に多大な負担をかけていた。
いつもなら、ここで屈している。
だが、負けるわけにはいかないのだ。
こんな自分のために命をかけて誓ってくれた宇宙のためにも、ここで屈するわけにはいかない。
「離してください。今の私にはどんな拷問も無意味です。私はもう・・・何があっても・・・どんなことをされても・・・あなたには屈しないと誓った。借金があろうがなかろうが、そんなことは関係ないっ」
亨に反抗するのも初めてだが、こんな乱暴な口を利くのも初めてだった。
腕を掴み上げていた亨が、自分のいいなりにならない遼一を目の前にして、ギリリッと奥歯を噛みしめる。
こいつ、いったいどうしてくれようかと考えあぐねいている歯軋りだった。
「この私に向かって、いい度胸だな?だが生憎とどんなに凄もうと抵抗しようと、私はお前を手放すつもりなど毛頭ない。両脚を切断してでも私の手元に置いてやる。そして一生、お前は私に仕えるんだ。その口と手を使ってな・・・」
「嫌だ!離せっ、腕を離せっ」
遼一は亨のいやらしい言葉を聞いたとたん、身体の中で何かが弾けてメラメラと燃え上がったのを感じた。
今まで感じたことのない、怒り、憎悪、そして修羅の心が次第に目覚めていく。
今までは、どんな拷問を受けても決してこんなふうに身体中に火が点いたように熱くはならなかった。
こんなふうに心の奥底から闘志や勇気が湧き上がってきたことなどなかった。
遼一は、まだ力の入らない身体で懸命に亨の束縛を逃れ、ベッドから降りようとした。
だが足に手錠のような枷が嵌められていて、ベッドを降りることができない。
足を引っ張ると、ガシャガシャッとスチールの鎖が擦れ合う音がする。
「足枷を外せっ。外せっ」
遼一は眉尻を吊り上がらせ、亨に向かって叫んだ。
だが亨が、足枷を外すはずがない。
遼一は、もっと激しくガシャガシャッと足枷を揺らした。
いつの間にか足首の皮膚が切れ、血が滴っている。
その光景を見ていた亨は、遼一が完全に以前とは違うことを知った。
亨の知っている遼一は、凄めばすぐにおとなしくなり、柔順な僕だったはずだ。
闘志と敵意と反抗心を剥き出しにした遼一を目の前に、亨は腹の底から怒りが込み上げるのを感じた。
遼一の自我を目覚めさせ、こんなふうに変えてしまった宇宙という男。
その男の存在が、遼一のずっと奥底に眠っていた修羅の心を呼び起こしてしまったというのか。
遼一の出生の秘密を知っている亨は、一瞬恐怖のような感情を抱いた。
遼一に対して恐怖を感じるなど、どうかしている。
だがあの目は、死んでも言うことを聞かないと訴えている目は、確かに修羅のものだった。
最愛の息子を失った紅林組の姐御から、今は亡き愛人の子供を抹殺してほしいと依頼があったあのとき、殺してしまったほうがよかったのかもしれない。
そんな考えが、一瞬亨の頭をよぎる。
あのとき父親である大江原権蔵は、利用価値があると言って、遼一を殺さず手元で飼うことを選んだ。
そしてそれを引き継いだ亨だったが、いつしか本気で遼一の手や口の妙技に溺れていた。
だが、今の牙を剥いた遼一では話は別だった。
いったん目覚めてしまった修羅の魂を心の奥底にしまい込むことはもうできないのだ。
やはりあのとき、殺しておくべきだったのではないだろうか?
紅林組の姐御には用意した別の焼死体を見せ、納得させた。
組長は納得していない様子だったが、いつか紅林組を動かすときに利用できると思ったのだ。
十年という歳月の中で、飼いならしたと思っていたのに。
このまま猫のように逆らわずおとなしくしていたら、一生飼ってやろうと思っていたのに。
あの宇宙とかいう男のせいで、遼一が変わってしまった。
あの宇宙という教師のせいでっ。
「恭也!宇宙を草の根分けても探し出せっ!金を積んで人を雇え。どんな代償を払っても、宇宙を探し出すんだっ。いいな!」
「はい」
恭也は、わなわなと身体を震わせて怒っている亨の言葉に、短く答えて手で合図する。
合図を受けた数人の渋いスーツ姿のヤクザたちは、次々と病室を出ていく。
「抵抗したら、手脚を引きちぎってでも構わん。必ず生きたまま俺の元に連れてこいっ。いいな?」
病室を出ていく恭也の後ろ姿に向かって、亨が怒鳴り散らす。