東京スペシャルナイト 下 2

「何か、食べるかい?」

 

白髪が交じった髭を生やしている男は、そう言って仕入れてきたばかりのハンバーガーを宇宙に差し出した。

 

賞味期限切れで生ゴミ用のポリバケツに入れられたのを、男はすぐに盗んできたのだ。

 

ラッピングされているハンバーガーを涙で潤んだ瞳で見つめ、宇宙は無言のまま首を横に振った。

 

さっきまでどしゃぶりだった雨は、いつの間にかやんでいた。

 

町中のネオンは、雨に洗われたように美しく光り輝いている。

 

雨が上がったので、人通りも多くなった。

 

表通りを行き交う人の声でわかる。

 

ホテル街の裏路地にあるホームレスが集まる小さな公園には、木の下に無数のダンボールで作られた小さな小屋が並んでいた。

 

どしゃぶりに遭ったので、ダンボールもヨレヨレである。

 

ハンバーガーを差し出した男は、早くも三つ目を平らげながら外に出た。

 

そして小屋の外に出て、濡れてだめになったダンボールを手慣れたように畳んでいく。

 

「もう雨は上がったようだ。よかった、よかった。濡れたダンボールの中で寝るのだけは嫌なんだ。グチャグチャして気持ち悪くて・・・」

 

袖口の破れた上着に丈の短いズボンを穿いている男は、独り言を言い、ハンバーガーを食べながら濡れて使い物にならなくなったダンボールを積み上げた。

 

宇宙は、相変わらず青い顔をして震えていたが、男にもらった薄汚れたシャツとトレーナーの上下を着ていた。

 

鼻をつく異臭がしたが、今の宇宙にはそんなことは関係なかった。

 

ホテルの中で見たあの光景が頭の中から離れない。

 

白いバスローブが、どんどん赤く染まっていく。

 

意識を失って倒れている遼一の姿。

 

そして遼一が言った「逃げろ」という言葉。

 

「あぁぁ・・・。どうしよう。どうしたらいいんだっ」

 

宇宙は、まだ雨で濡れているベンチに腰を下ろして頭を抱えるように叫んだ。

 

その様子をじっと見ていた不精髭の男が、偵察に行っていた仲間が帰ってきたことを知って振り返る。

 

「何かあったのか?」

 

同じような汚い格好をして息を切らしているまだ若い男に、やっとハンバーガーを食べ終わった髭の男は尋ねた。

 

「何かあったなんてもんじゃないって。今そこのラブホテルで発砲騒ぎがあって警察が来たところ」

 

「発砲騒ぎ?街のヤクザ同士の抗争か・・・何かか?」

 

髭の男が、ベンチに座ったまま凍りついている宇宙を見ながら、長い髪をボサボサにしている男に聞いた。

 

すると男は、ダンボールの上のハンバーガーに気づくなり急いで三つほど抱え込み、慌てて食べながら首を振った。

 

若い男は、三日間ろくなものを食べていなかった。

 

「わ、分からねーけど、警察が来る前に街のチンピラたちが慌てて逃げていったって、仲間が言ってた」

 

と、ハンバーガーを口いっぱいに頬張りながら若い男が言うと、それまで固まっていた宇宙は大慌てでその男の前に走り寄った。

 

「そ、その中に・・・白いバスローブ姿の男はいなかった?ねぇ、いなかったって?」

 

宇宙はボサボサ髪の男の襟元を掴み、前後に大きく揺すりながら聞く。

 

ハンバーガーを食べていた男は、喉にパンの塊を詰まらせ、苦しそうな顔をする。

 

「は、離せっ!なんだこいつ・・・いきなり・・・ごほっ・・・」

 

手荒く宇宙を突き飛ばした男は、ゲホゲホと咳き込みながらその場から遠ざかる。

 

だが宇宙は懲りずに、その男の後を追った。

 

「お願いっ、教えてください。大事なことなんですっ。チンピラたちに、白いバスローブを着た男の人が連れていかれなかった?誰か他に何か見ていないんですか?」

 

宇宙があまりに真剣な顔でしつこく言うので、男もいい加減逃げることを諦めた。

 

そしてシートの下に隠しておいた乾いたダンボールを引き出し、その上にドカッと腰を下ろしてから宇宙を指さした。

 

「てっちゃん。こいつ、なんだよ。てっちゃんが何かあったのか見てこいって言うから見に行ってやったのにさ」

 

男は気分を害したようにそう言って、不精髭の男を見つめた。

 

てっちゃんと呼ばれた男は「悪い、悪い」と言いながら、ハンバーガーをもう一つ放り投げた。

 

「それで勘弁してくれ。丸君」

 

「まぁ、しょうがないな。てっちゃんが言うんだから。おい、お前っ。そんなところに突っ立ってないで、話が聞きたかったらこっち来て座れ」

 

てっちゃんに丸君と呼ばれたボサボサ頭の若い男はハンバーガーを受け取ると、ポンポンとダンボールの敷物を叩いて言う。

 

宇宙は「はい」と返事をして、急いで丸君が座っているダンボールの上に正座した。

 

その素直な反応に、思わず丸君の不愉快さがどこかに行ってしまう。

 

「俺、丸って言うんだ」

 

「あ、あの・・・僕は宇宙と言います」

 

ペコっと頭を下げて宇宙が自己紹介をすると、丸君は宇宙の素直な性格にますます驚いたようだった。

 

「今どき、珍しく素直なヤツだな?それで、何が聞きたいって?」

 

「あの、だから白いバスローブの男を連れていかなかったかということなんですけど?」

 

正座している宇宙が、身を乗り出して丸君に聞く。

 

丸君は、宇宙の真剣な眼差しとこのあたりにはいない綺麗な顔立ちに一瞬見とれたが、てっちゃんの「ゴホン」という咳払いに気づき、すぐに我に返った。

 

そして見聞きしてきたことを、事細かに説明してやる。

 

「まぁ、俺が実際にこの目で見たわけじゃないから本当のところは分からねーけど、仲間の話によると、チンピラたちは意識のない男を一人連れていたと言っていた。白いバスローブを着て胸から血を流していたって言ってたけど・・・」

 

「遼一さんだ!やっぱり・・・連れていかれたんだ。どうしよう・・・」

 

話の途中だったが、宇宙は遼一が恭也に連れていかれたことを知ると、思わず泣き崩れてしまった。

 

そして両腕で震えている身体を抱きしめて、必死に恐怖と戦う。

 

だが、どんなに心を強く持とうとしても、あの光景が宇宙の決意の邪魔をした。

 

恭也が遼一を銃で撃ったその直後の光景は、本当に映画ワンシーンのようだった。

 

もしかしたら、もう死んじゃってるかもしれない!?

 

そんな恐ろしい考えが、宇宙の頭の中に浮かんでは消えていく。

 

あれだけ殴られた上に銃で撃たれて、どこかに連れていかれてしまったら、もう助からないかもしれない。

 

それにもし助かっていたとしても、どうやって助け出したらいいの?

 

街のチンピラたちを動かしているのは恭也である。

 

あの冷酷で情けを知らない恭也に捕まっている遼一を、どうやって助けたらいいの?

 

「あぁぁ・・・どうしようっ!どうしようっ!」

 

宇宙は泣きながら両手で顔を覆い、何度も叫んだ。

 

自分が今こうして生きていられるのも奇跡に近いことなのに。

 

チンピラやヤクザを相手にして勝てるわけがない。

 

「遼一さんが・・・死んじゃうっ。どうしよう・・・どうし・・・・・」

 

宇宙が取り乱して泣いていると、新しい小屋を木の下に立てていたてっちゃんは、ポンポンッと手を叩いて埃を落とした。

 

そして泣き崩れている宇宙の近くに来て、そっと肩を叩く。

 

「そんなところで泣いていないで、こっちに来て詳しく話してみろよ。素性もどこの馬の骨とも分からない俺だが、話を聞くぐらいはできるぞ。それにこのあたりは俺たちの縄張りだ。チンピラなんかよりも俺たちのほうがずっと詳しいんだ。ヤツらが知らないことも俺たちは知っている。どうだ、話してみるか?」

 

不精髭を生やしているてっちゃんが、優しい声で言う。

 

宇宙はその声を、まるで神様のように思いながら聞いていた。

 

地獄で仏に会ったような、そんな思いだった。

 

今はその声に縋るしかない。

 

「・・・うえっ・・・はい・・・うう・・・」

 

宇宙はやっとのことで返事をすると、てっちゃんが新しく作ってくれたダンボールの小屋の中へと入っていった。

 

丸君はダンボールの上に座ったまま、しばらくの間ハンバーガーを食べていた。

 

 

東京スペシャルナイト 下 1

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件等とはいっさい関係ありません。

 

桜井遼一は、幼い頃に母親を失った。

 

突然の病死だった。

 

悲しむ暇もなく、その後母方の親戚の間をたらい回しにされ、養護施設に入れられた。

 

そして六歳になったとき、心優しい養父母が見つかり、遼一を東北地方に連れていった。

 

自分たちの子供に恵まれなかった養父母たちは、とても優しかった。

 

遼一を心から愛してくれた。

 

今までの不幸が嘘のように、遼一に幸せが訪れていた。

 

だが、そんな幸せも長くは続かなかった。

 

高校の卒業式を一週間後に控えたある日、養父母たちは突然交通事故で亡くなってしまった。

 

悲しみに泣き崩れている遼一に、以前世話になった施設の女性が来て言った。

 

高校を卒業したら働きなさい。

 

遼一は、大学を進学することを諦めて、東京に上京した。

 

かつて母親と三年間だけ過ごした東京の空気に、遼一はなぜか懐かしさを感じていた。

 

身の回りの整理をして東京に越してきた最初の日。

 

遼一はあの事件に巻き込まれてしまった。

 

一生を棒に振るような、ぼったくりの店での事件を、遼一は一日たりとも忘れる事ができなかった。

 

どうしてあのとき、あの店に入ってしまったのだろうか。

 

どうしてアパートにいなかったのだろうか。

 

どうして?

 

その後遼一は、不本意ながらもこうして自分を責め続ける十年間を過ごしていた。

 

だが養父母の死やあの店での出来事がすべて仕組まれたことだったということを、遼一はいまだに誰からも知らされていなかった。

 

そしてそれが遼一の出生に秘密があるとは、考えもしないことであった。