由一がフラワーショップ『白樺』で働くようになってからというもの今にもつぶれそうだった白樺は、みるみるうちに経営が上向いていった。
溜まっていた金融業者への借金も少しずつ返済に回り、白樺の経営は順調だった。
一時はつぶれるのを覚悟で、どうしてもここで働きたいと言ってきた由一を、半ばやけくそで雇った佐川だったが、こうなると由一は神様のような存在である。
由一の姿は神様というよりは天使様に近かったが、心まで天使様だったことに驚いていた。
センスがいいだけじゃなくて、つらい仕事を押し付けても文句一つ言わないで、一生懸命働いてくれるのだ。
そんな由一の評判を聞きつけて、白樺は毎日さまざまな客層で溢れていた。
「ありがとうございましたっ」
由一が最後のお客を見送ると、佐川はふーっと大きくため息を吐いて、パイプ椅子にドカッと腰を下ろした。
「やっと終わったか・・・。今日も忙しかったな」
「はいっ。仕入れたお花がほとんどなくなってしまいましたね」
と、由一が箒で床に散らばっている葉っぱをテキパキと掃除しながら嬉しそうに言う。
紺色のエプロンに白いトレーナー。それに黒いジーパンと安物のスニーカーを履いている由一を見て、佐川はずっと心の中で思っていた疑問を口にした。
「・・・由一くらいの容姿があったら、普通はもっといい服を着てもっといい靴を履いて・・・稼ごうと思えばいくらでも稼げるのに、どうして花屋なんだ?」
唐突な質問だった。
だが由一は、ちり取りの中にゴミを箒で掃き入れながら少し笑って答える。
「お花屋さんが好きだからですよ。決まってるじゃないですか」
「だけどな・・・。それだったら別にうちの花屋じゃなくてもいいだろう?他の花屋から引き抜きがきてるのは知ってるし、高給取りになれるのを断ってまでどうしてこんなボロい花屋で時給九百円のバイト代で働いているのか、ちっとも分からないんだよなー。何か特別な理由でもあるのか?いや、俺はとっても助かってるんだ。由一のおかげで借金もだいぶ減ってきたし、この店も売らなくて済んだんだから。だけどな、どーしても分からないんだ。なんでうちなんだ?」
佐川の言っていることはもっともだった。
由一のように素晴らしい技術と教養と美が共存している青年は、滅多にいるものじゃない。
いや、探そうと思っても無理である。
そんな青年がどうして?
「このお花屋さんが好きなんです。理由は、それだけです」
由一はどこかで昔を懐かしむような顔でそう言って、店の奥に行ってしまう。
「ここにある菊、水切りしてから帰りますから」
と、由一が奥の水場から言う。
佐川は『ああ、頼む』と返事をして、由一が答えてくれた言葉の意味を考えていた。
この花屋が好きって、よく分からんなー?
佐川は少し考え込んでいたが、答えが見つからなかったのか、諦めたように椅子から立ち上がると帰り支度を始めた。
「じゃあ、俺は飲みに行くから。由一も早く帰れよ」
「はーい。お疲れさまでしたっ」
「お疲れー」
佐川は、一週間分の売り上げの入った鞄を脇に抱えるようにして、店を出て行く。
これから行きつけの小料理屋で一杯やるつもりなのだ。
酒と賭け事が好きな佐川は、親から引き継いだ花屋をそのために傾かせてしまったのだが、最近は由一のおかげで懐が暖かい。
借金で首がまわらなかった時のことなど、もう頭の中にはなかった。
まったく。どういう理由でうちの花屋にいるのか知らないが、由一のおかげで毎晩酒は飲めるし、負けが祟ってずっと断っていたマージャンだって始められるようになったんだから、感謝しなくちゃな。
佐川は内心そんなことを思いながら、大金が入っている鞄を大切そうに撫でて、行きつけの店の暖簾を潜っていく。
「いらっしゃい」
「あっ。ビール、ビール。それとつまみは適当にね」
「佐川さんっ、最近は景気がいいらしいね。あの由一君のおかげかい?」
「ああ、そうだよ。まったく、由一様、様だ」
佐川は大声で笑いながら、上機嫌でカウンターの席にドカッと座った。
※ この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件等とは、いっさい関係ありません。
季節は春。
「あの、すみません。花束・・・欲しいんですが。五千円くらいで、できますか?」
今日のお花屋さんは忙しかった。
しかも今日は日曜日。
お花屋さんは、いつもよりずっとずっと忙しいのだ。
「はい。もちろんできますよ。バースデー用ですか?」
籐の籠の中に、スイートピーを使ってフラワーアレンジメントを作っていた綺麗な顔立ちの由一は、少し恥ずかしそうな声で花束を注文してきた男性を振り返った。
グレーのスーツ姿で、ちょっと照れ笑いをしている一人の中年の男性が立っている。
由一は、花屋の前で恥ずかしそうにしている男性を見て、ニッコリと優しく微笑んだ。
「花束でよろしいですか?」
男性とは思えないくらいの美しい由一の微笑みを見て、そのサラリーマンははっとしてしまう。
妻のために花束を買いに来たことなど、一瞬忘れてしまったほどだ。
由一の年齢は二十歳ぐらいだった。
大きな二重の黒い瞳がとても印象的で、日に焼けていない白い肌には染み一つなかった。
眉は少し細めで、形のよい朱色の唇と睫を伏せた時の表情には、ドキッとするような色香が漂っていた。
「どのような花がお好みですか?」
「えっと・・・その・・・」
サラリーマンはそんな由一に見とれてしまい、一瞬言葉を失ってしまう。
だが由一は、そんな男性を違った観点で見ていた。
お花屋さんという、華やかで花の甘い香りが立ちこめている店は、サラリーマンにしてみれば、デパートの女性下着売り場と同じくらい恥ずかしくて居心地の悪いところ。
だからちょっと照れているのだと。
正直店に入ってきたときはそういう感情もあったが、今は由一の可憐な美しさに度肝を抜かれてしまった。
「なんでもいいんですが・・・」
栗色のフワフワッとした短めの髪がとても清潔感を感じさせる由一は、キーパーの前でうろうろとしてさまざまな花を物色している、サラリーマンを優しく見つめて聞く。
こんなふうに顔を赤らめている男性は、大体いつも同じようなことを言う。
「・・・つ、妻の・・・誕生日なんだ。その・・・花束を贈るのは久しぶりで・・・いや、結婚して初めてかな?とにかく、どんな花を贈ったら喜ばれるか分からなくて・・・」
サラリーマンは、由一にチラッと視線を合わせてから、スーツの内ポケットに手を入れた。
そして黒い財布を取り出し、必死になんとか落ち着きを取り戻そうとしている。
愛する妻のために、花束を買うことは恥ずかしいことじゃないのに。
と、由一はサラリーマンの落ち着きのない様子をいつも勝手にそう思い込んでいたのだ。
実は、由一の姿の美しさに男性たちが圧倒されているとも知らないで。
「奥様はどんな花がお好きか、ご存知ですか?」
「・・・そうだな・・・。白い百合とか・・・好きだったかな?」
「百合ですか。分かりました」
由一は、これから作る花束を頭の中で思い描きながら、キーパーの戸を開けた。
そして、冷房が十分に効いてさまざまな花でひしめき合っている、四方をガラスで囲まれた小さなキーパーと呼ばれる部屋の中に入った。
百合が好きかぁ。
だったら、メインの花はこれで決まりだな。
由一が最初に手に取ったのは、真っ白で大輪の花が見事な、カサブランカだった。
カサブランカは普通の百合よりはだいぶ高価だが、気品に溢れた姿がなんとも美しく、とてもいい香りがして、バースデーやお祝いにはピッタリの花なのだ。
「このカサブランカに霞草と、真っ赤な薔薇を二本でどうでしょうか?薔薇だけの花束よりもずっと高貴に見えますし、何よりもいい香りがするんです」
大輪の花を誇らしく咲かせ、大きな蕾を二つつけた気品溢れるカサブランカを見せて、真っ赤な薔薇と霞草を組み合わせながら由一が言うと、男性の目は嬉しそうに細められた。
本当はもうなんだっていいのだ。
この店員さんが作ってくれる花束だったら、どんな花だって綺麗に見える。
「あっ。それ、いいね。すごくいいよ。とても綺麗だし妻が喜びそうだよ。だけど・・・五千円で足りるんですか?なんか・・・とても高そうだけど?」
思っていた以上に豪華な花束は、男性に給料日前であることを思い出させた。
由一の顔に見とれていたが、やっと我に返ったのだ。
五千円の花束は、きっとこのサラリーマンの男性にしてみたら、とても高価な代物なのだ。
由一は、せっせと一生懸命に花束を作りながら両目を細めて言った。
「大丈夫ですよ。ちゃんと五千円以内で仕上げますから」
「・・・ありがとう。やっぱりここに来てよかったよ。いや、会社で噂に聞いてちょっと寄ってみたんだ。とてもセンスのいいお花屋さんがあるって。でもセンスがいいのは花屋じゃなくて、店員さんのことだったんだな。店員さん・・・なんだかとても綺麗だし・・・」
同性対して綺麗だなんて言ってしまって、果たしてそれは褒め言葉なのだろうかと、一瞬考えたサラリーマンだったが、綺麗なものは綺麗なのだからしょうがない。
どうみても、自分の妻よりもずっと綺麗なのだ。
でもやはり唐突で失礼だったのかもしれない。
「ありがとうございますっ」
由一は、素直に綺麗と言われたことを受け止め、礼を言った。
「・・・い、いえ」
サラリーマンの客は、照れたようにそう言って頭を掻き、嬉しそうに由一が持っている花を見つめた。
本当は花束じゃなくて、由一の顔をもっとじっくりと見ていたいのだが。
中心にカサブランカを挿し、真っ赤な薔薇がアクセントになっている花束は、もう出来あがろうとしていた。
「ラッピング代は結構ですから」
由一は花束の口を裁ちバサミで切って揃え、輪ゴムで結わえて、ピンク色の和紙と透明なラッピングペーパーで見栄え良くラッピングしていく。
そして最後に真っ赤なリボンを結ぶと、『はい』とサラリーマンに手渡した。
その花束を受け取った時のお客様の顔が、由一は一番好きだった。
本当に心から『うわっ、綺麗だ』『嬉しいっ』というような顔をしてくれるからだ。
どんな人でも、花束を受け取る瞬間は、至福の顔をするものだ。
これは、花が持つ純粋で可憐な美しさと魅力のせいだろうか。
と、由一は思っているのだが、実は男性は由一から花束を渡されたのが嬉しくて、ついニターッと笑ってしまっていたのだ。
「五千円いただきます」
「はい、じゃあ、これ。綺麗に作ってくれてありがとう。また・・・来年の結婚記念日にもここに来ますから。いや、クリスマスにも来るかもしれないけど・・・」
サラリーマンは嬉しそうにそう言って、由一に五千円を手渡すと何度も振り返って帰っていく。
花束を持ち慣れていないのか、行き交う人たちの視線に恥ずかしそうにしている。
だが、サラリーマンの後ろ姿からは、妻への愛情が満ち溢れているように由一には見えた。
「いいなー。あの照れながら持っていくっていうのが、いいんだよなー」
と、由一は思わず呟く。
だが実際には、男性は由一が作ってくれた花束が嬉しくて嬉しくてしょうがなかったのだ。
それに、ここに花を買いに来れば、また由一に会える。
その事実がサラリーマンを喜ばせていた。
サラリーマンの後ろ姿が見えなくなると、店の奥の方から一人の中年男性が姿を現した。着ているものは薄汚れた茶色いスラックスに、黒いポロシャツ。それに汚れた合皮の靴。
見た感じは少し太りぎみで、ちょっと不潔っぽい感じがして、黒いフレームの眼鏡を掛けている。華やかでお洒落を売り物にしているお花屋さんには、ちょっと不似合いな感じの中年男性だった。
「・・・またか?」
「あっ、佐川さん。見られちゃいましたか?すみません。今の薔薇のお金は私のバイト代から引いてください」
由一は、ペロッと舌を出しつつも申し訳なさそうに言う。
するとこの小さなフラワーショップのオーナーである佐川は、本当に困ったように顔を歪めた。
「いつもいつも・・・おまけばかりして。薔薇は二本で七百円だぞ。由一君の約一時間分のバイト代じゃないか。気がいいのもたいがいにしとかないと、あとで大変な目に遭うぞ?」
由一の優しすぎる性格を心配しているのか、さっきの二本の薔薇がもったいなくて言っているのか由一には分からなかったが、あまり深くオーナーの言っていることは考えなかった。
なぜなら、花が大好きな由一はお花屋さんで働くことが大好きだった。
だから、多少オーナーから怒られても全然気にならないし、そのためにバイト代が減ったとしても構わないと思っていた。
だってその代わりに、花束を受け取ったお客様の、零れんばかりの笑顔が見られるから。
ありがとうっていう顔が見られるから。
また来ますって、言ってくれるから。
「まぁ、由一君がバイトで来てくれてからというもの、つぶれかけていたこの店もなんとか持ち直して、今では結構有名になって遠くからもお客さんが足を運んでくれるようになったんだから。あまりうるさくは言いたくないけど・・・ 」
「すみません。今度は気を付けますから」
「・・・いいよ。さっきのお客さんはまたクリスマスに来てくれるだろうから」
「はいっ」
「薔薇は、さっきのサラリーマンの奥さんに、俺からの誕生日プレゼントだよ。まったく・・・」
「ありがとうございますっ」
由一は、いつも文句を言いながらもほんとはやっぱり優しいオーナーが、ちょっとだけ好きだった。
花が大好きな由一は、フラワーアレンジメントや花束を作るのがとてもうまかった。
美的センスが抜群にいいのだ。
全国なんとか、というような賞を持っているわけではない。
コンテストに出たことがあるわけでもないのに、由一はいつに間にかフラワーショップの経営者の間では、有名人になっていた。
今日も、由一が作った花束をキーパーの中に並べると、飛ぶように売れていく。
由一の優しさとセンスの良さと、何よりも純粋な心の美しさが溢れている花束は、何の気なしに通りがかった人にも、思わず買わせてしまう不思議な魅力があったのだ。
だが、花が飛ぶように売れていくのは美的センスだけの問題ではなく、もちろん由一の綺麗な姿を見たくて何度も足を運ぶ客もいるからだった。
そういうお客たちは、由一から買った花束を手渡される瞬間が嬉しくて、またやって来るのだ。
そんな由一の噂があっという間に広がり、都内の有名なフラワーショップは、こぞって由一をなんとか自分の店で働かせたいと望み、あの手この手を使って引き抜こうとしていた。
美的センスが抜群によくて人当たりのいい店員は、フラワーショップでは何物にも代えがたい、逸材なのだ。
しかも、見目麗しい男性店員となれば、女性客はもちろんのこと、男性客まで見込めるのだ。
だがどういうわけか由一自身は、このダサい格好のおじさんが一人でやっている小さなお花屋さんにバイトとして入ってしまった。
近所に次々と出店した近代的でモダンなフラワーショップに押されて、今にもつぶれそうになっていた『白樺』にどうして?と、誰もが疑問に思った。
だが由一は、どんなに破格な給料を提示されても、良い条件を出されても、他のフラワーショップに乗り換えようとはまったく思っていなかった。
由一が白樺にバイトで入ったのは、今から約一年前の春だった。
それから由一は、文句一つ言わずに時給九百円でこの白樺に雇われている。
「いらっしゃいませ」
「お見舞いの花束、作ってもらえますか?えっと・・・三千円ぐらいで・・・」
大学生らしいこの男性は、由一のファンの一人で、週に一度くらいの割合で通いつめている。毎週毎週、それなりの理由を見つけては花を買いに来るのだ。
先週は確か、友人の結婚祝いだったっけ?
「はい。分かりました」
「あの、私にも花束を作ってください。部屋のリビングに飾りたいんです」
次に声を掛けてきた中年の女性も由一の作るセンスのいい花束のファンであり、由一自身のファンでもある。
「はいっ。ありがとうございます」
キーパーに出入りして、さまざまな花束を作っていると、次々と客がやって来ては由一が作った花束を買っていく。
一見、女性と見間違うばかりに美しい顔立ちをしている由一は、いつもの優しい笑顔で応対している。
そしてあっという間に、魔法のように可憐な花束を作っていくのだ。
その手際の良さは見事だった。
そんな由一を、白樺の店主である佐川茂紀はさっきからずっと見つめている。
またいつもの癖が出るんだろうなーという、ちょっと困ったようなしかめっつらで。
きっとあのピンクのスイートピーを何本か、おまけで入れてやるつもりなのだ。
まぁ、それが由一のいいところなんだから仕方がないか。
そう思って諦めた佐川は、少し笑って大きな花瓶の水換えの仕事を続けた。