ずっと一人で閉じ込められていたせいか、最近では人恋しくてしょうがなかった。
それに、まんまとここから逃げ出せたとしても、そこから先はどうなるのだ?
どこに逃げたらいいんだろう?
家はないし、家族もいないし、フラワーショップの白樺にだって行けない。
それに逃げたりしたら、きっと堂本は怒りまくって追いかけてくる。
地の果てまでも追いかけてくるに違いないのだ。
「あ、あの・・・。食べ終わるまでここにいてもらえませんか?」
由一は、部屋を出て行こうとするヤクザたちに向かってそう言った。
不審そうな顔をして、派手なスーツ姿のヤクザたちが振り返る。
「何か・・・企んでるな?」
「そ、そんなことないですっ。ただ・・・話したいだけです。誰でもいいから・・・」
と、由一は切なげな瞳を向けて言った。
それほど、由一は人恋しかった。
人は、無人島では生きていけないのだ。
食糧や衣服、住居があっても、話し相手がいなければやがて気が変になってしまう。
そんな本を読んだことがあったが、由一はそれは本当だと考えるようになっていた。
誰でもいいから、人と接していたいのだ。
たとえ相手が怖いヤクザでもいいから、言葉を交わしたいのだ。
「あの・・・このフランス料理とっても美味しいです」
「・・・・・」
「このサラダなんて、今まで食べたことがないくらい美味しいです。新鮮だし、何よりもドレッシングがいいです」
「・・・・・」
由一が何か話しかけてきても、ヤクザたちは何も言わない。
必要以上に由一と接触することを、堂本から禁じられていたのだ。
だが由一は、このままずっと一人で閉じ込められる生活をあとたった一日でも続けていたら、発狂してしまいそうだった。
生活するには困らない、何もかも揃っている贅沢で豪勢な部屋。
だが由一が今欲しいのものは、話し相手だった。
由一が一生懸命に前菜を食べていると、玄関の辺りが急に騒がしくなった。
「・・・どうだ、様子は?」
その、迫力のある声の持ち主は、堂本だった。
「はい。とてもおとなしいです」
「そうか・・・」
一ヶ月ぶりに見る堂本は、相変わらず顔の右側にひどい傷跡があったが、見たとたん由一の胸の奥がドキンと高鳴った。
唯一、由一をこの状況から救い出すことができる堂本は、由一にとって神様のような存在になっていた。そんな堂本が、やっと来てくれた。
自分に会いに来てくれた。
一人で過ごした一ヶ月の間、もう忘れられてしまったのかもしれないと何度も思っていた。
だが、こうして来てくれた。
それが何よりも嬉しかった。
堂本は、以前出会った時よりもさらに高価そうな紺のダブルスーツを着ていた。
Yシャツとネクタイは、品のいいピンク色で統一している。
洒落たデザインの革靴は、イタリア製だった。
「少しは反省したようだな?それとも、自分の立場がようやく分かったか?ん?」
堂本は、食事をしている由一の側に近寄り、まだ口の中に食べ物が入っていてモグモグとやっている顎をグイッと上に向かせた。
そしてそのまま、チュッと唇に軽くキスをする。
由一は、両手をフォークとナイフで塞がれていたために、以前のように爪で引っ掻くことができなかった。
ナイフを持ったまま暴れたら、さすがに冗談では済まされなくなる。
それに、両手が塞がっていなくても由一はきっと抵抗しなかっただろう。
人との繋がりをまったく絶たれたような生活には、もう少しも耐えられなかったからだ。
もしかしたら、誰もいない離れ小島にでも連れて行かれるかもしれないのだ。由一は、借金の形に売られた自分の運命をすべて受け入れたわけではなかったが、離れ小島に行くこともこれ以上このマンションに一人ぼっちで放っておかれるのも、嫌だった。
「だいぶ、素直になったな?」
堂本は、キスしても抵抗を示さなくなった由一に満足して、ふふっと笑う。
そして今日は余程機嫌がいいのか、由一の髪を指で弄りながら穏やかな表情で言葉を続けた。
「食事を済ませてシャワーを浴びろ。俺が選んだ服を着て、決して逆らわないと約束できるなら、外に連れ出してやってもいいが・・・どうする?」
それは、神様の声のように由一には聞こえた。
由一はフォークとナイフをテーブルに置き、縋るような目つきで堂本を見上げた。
「ほ、本当に?」
「俺の言うことを全部聞けたらの話だ。それと、決して逃げ出さないと誓え」
堂本は、由一の顎を掴んだまま低い声で言う。
由一は、考える間もなく『はいっ、誓いますっ』と答えていた。
あまりにも素直な答えに、堂本が不審そうに左目を細めて眉間に皺を寄せる。
「あっ、あの・・・本当ですっ。絶対に逃げませんっ。言うことも聞きます。食事も食べるしシャワーも浴びるし、服だって堂本さんの好みのものを着ます。だからお願いしますっ。この部屋から連れ出してください。もう一カ月以上も一人きりで、誰とも話をしていないんです。寂しくて寂しくて・・・このままだったら、発狂して死んでしまいますっ」
由一は、必死の形相で堂本の上着の端を掴んで訴えた。
上着の端を掴んだ由一の手が、ブルブルと震えている。
余程このマンションに一人で閉じ込められていたことがつらかったのだろう、茶色い瞳もすっかり潤んでいる。
このまま少しでも突き放したら、今にも大声で泣き出しそうである。
堂本は、一カ月前の気の強い由一とは別人のように素直になったことに、内心とても満足していた。
由一が素直で言うことを聞いていれば、堂本は気分がいいのだ。
この調子なら、今夜のうちに由一を抱ける、と堂本は思った。
堂本は、凶暴な猫のような爪を立てて抵抗する由一を無理に抱いても、愛と優しさに飢えている自分の心が満たされないのはよく分かっていた。
だから堂本は一カ月前のあの時も、せっかく手に入れた由一を抱かなかったのだ。
堂本が欲しているのは由一の身体だけではなく、心も、そして由一の愛情も、すべて手に入れたかったのだ。
由一を初めて見たのは二カ月前。
花束をとても嬉しそうに作る由一の美しさに、堂本は瞬時に心を奪われていた。
心の美しさと純粋さが伝わってくる、由一の優しい笑顔を一目見て、堂本は自分一人だけのものにしたいと思ったのだ。
由一なら、きっと荒んだ心を癒してくれるに違いない。
あの時から、堂本は由一が欲しくて堪らなかったのに、ずっと我慢していたのだ。
それは、今までなんでも自分の思いのままにしてきた堂本にしてみれば、拷問に近かった。
だが、この調子なら今夜中に素直な由一が抱ける。
そう思うと、自然と声も優しくなっていた。
「・・・・・いいだろう。さっさと食事をして、シャワーを浴びて服を着るんだ」
「は、はいっ」
由一は嬉しそうに返事をすると、急いでステーキを口に運んだ。
そして広いバスルームに走り、シャワーブースで勢いよく身体を洗い、堂本が用意してくれた衣服に袖を通していく。白い高価なYシャツと、黒いコットンのスラックス。
ベルトには、グッチのロゴが入っていた。
最後に黒い革のスニーカーを履き、急いでソファに座っている堂本の前に走っていく。
「あ、あのっ。できましたっ。これでいいですか?」
由一は、一カ月ぶりに外の空気が吸えることが嬉しくてしょうがなかった。
堂本の情夫とか、借金の形とかそんなことよりも、この鳥籠のようなマンションから出してもらえる喜びの方が強かったのだ。
もう、嬉しくてしょうがない。
「・・・よく似合っている」
堂本は、用意したオートクチュールの服を着た由一を見て、左目を細めて言った。
「お前は俺の情夫だ。この・・・籠の中から一人で飛び出すことも逃げることも、もちろん勝手に死ぬことも許されないのだ」
「・・・そ、そんな・・・・・」
「俺の命令だけを聞き、俺のためだけに生きてここに住む。もちろん、ここにいる間はなんでもお前の自由だ。何をしてもいい。どんな物だろうと欲しいものは手に入れてやる。それがお前の望みならな」
「やっ・・・やめて・・・」
舐めるように動いていた堂本の唇が、由一の唇に近づいていく。
由一は逃げようともがいたが、それは許されなかった。
「・・・あっ・・・んっ・・・ぐぅ・・・・・」
堂本に唇を激しく塞がれて、ソファの上で『嫌だ』ともがく由一だが、堂本はキスをやめようとはしなかった。
それどころか、どんどん激しく荒々しく、由一の口中を犯していく。
「はっ・・・ぐぅ・・・ううっ・・・」
由一は、いつの間にかソファの上にズズッと倒れるように横になっていた。
その上に、堂本が覆いかぶさってくる。
堂本の重みに由一の身体は押さえ付けられ、こうなってはどうしようもなかった。
それにこんなに濃厚で激しいディープキスをされたのは、由一は初めてだった。
高校生の時、クラスメートの女の子にいきなりキスをされたことがあったが、あの時以来である。ほろ苦い煙草の味とディープキスの激しさが交じり合って、由一の頭の中をクラクラとさせていった。
もう、考えられない。
由一は、連れ去られた時に着ていた白いポロシャツの裾を捲くられ、脱がされながらそう思っていた。
堂本の手がポロシャツの中になんなく入り込み、脇腹から胸へと這い上がっていく。
そして右側の乳首を見つけると、すぐにそれを摘み上げた。
「・・・ んんっ」
由一は、他人に初めて乳首を摘まれた感触に、思わず声を上げてしまった。
だがキスで唇を塞がれていたので、喘ぎ声としては発せられていない。
だが由一が漏らした声は、明らかに感じている時の、アノ声だった。
由一は、ギョッとしてしまった。
こんな状況で、ヤクザに乳首を揉まれて感じてるなんて、信じられなかった。
「・・・身体は素直だぞ、由一」
堂本は、そんな由一の身体の反応を誰よりも早く察知していた。
キスを途中でやめ、小気味よさそうにくくっと笑う。
由一はそのいやらしい笑いを見て、カッと頭に血が上ってしまった。
こんな高層マンションの一室に無理やり閉じ込められ、自分の知らない高額な借金を押し付けられ、しかもヤクザな男にキスまでされてるっ。
昨日まではお花屋さんでバイトしていて、仕事が楽しくて、毎日が楽しくて、自分の運命がこんなになっちゃうなんてとても想像できなかったのに。
それなのにヤクザにキスをされて、感じてしまっているなんて信じられないっ!
「いやっ・・・いやぁぁ・・・・・」
由一は、キスに翻弄されていく自分にブレーキをかけるように、目の前の顔に爪を立てて抵抗した。
由一の爪は、また堂本の右頬に当たった。
今度は、うっすらと頬から血が出るくらい強く引っ掻いていた。
引っ掻かれた堂本の顔が、あっという間に恐ろしい形相に変貌していく。
「俺の顔にこれ以上傷をつける気か?ええっ?」
堂本の声はゾクリとするほど低くて、由一を震えさせた。
今までの穏やかに話していた堂本とは、まるで別人である。
「・・・俺を怒らせるなと・・・言ったはずだ。忘れたのか?」
堂本は、手の甲で血をぬぐって、由一のポロシャツの襟元を締め上げた。
由一が引っ掻いた傷自体はたいしたことはない。
だが、由一がこの期に及んでもまだ抵抗しようとするその根性が気に入らなかったのだ。
こんなに優しく大切に扱ってやっているのに、由一はいっこうに心を開こうとしないのだ。
身体はこんなに素直で感じているというのに。
そのギャップが、堂本には我慢ができなかった。
由一の襟元を締めている手に、ギュッと力が籠る。
普通の女ならば、暴力団組織の幹部である堂本貴良に望まれ、こんな高級マンションまで与えられたら泣いて喜ぶというのに。
どうしてそれが、由一には通じないのだ。
堂本は、苛立っていた。
「うっ・・・ぐう・・・・・」
由一は、ソファの上で横になったまま首を絞められ、自分はもしかしたらこのまま死ぬかもしれないと思い、目を瞑った。
このまま死んでしまうのだろうか。
そう思ったとたん、堂本の手から力が抜けた。
「ごほっ・・・」
咳き込みながら堂本を見上げると、堂本はソファから離れていた。
「・・・ 仕方がないな。一ヶ月後にまた来るとしようか・・・。その時までには考えも変わるだろう」
堂本は、片目で由一を見下ろし、ヤクザたちと一緒に部屋から出て行く。
由一はまたこの部屋の中に一人で取り残されてしまうのかと思い、慌てて立ち上がって追いかけようとした。だが、足に力が入らない。
絞められていた喉が痛くて、満足に呼吸ができない。
「ま・・・待って・・・お・・・お願い・・・。待って・・・つれてって・・・」
由一が懸命に後を追って玄関ホールまで行くと、そこにはもう誰の姿もなかった。
ドアノブをガチャガチャッと音を立てて動かしてみてもドアは開かなかった。
また、その場に崩れるようにして座り込んでしまった。
それから一ヶ月間、由一はこのマンションの一室から一歩も外に出ることができなかった。
もちろん、たった一人で、だ。
最初のうちはなんとか逃げ出そうとあれこれと考えていた由一だったが、日が経つにつれてそんな気力もなくなっていった。
何より由一を不安にさせたのは、人との接触をいっさい断たれたことだった。
人間という生き物はたった一人では生きていけない。
話相手というものが存在しなければ、正常な理性や精神状態が保てないのだと、実感した一ヶ月だった。
この部屋には何もかもが揃っている。
巨大画面のBSテレビもジェットバス付きのバスタブも、見たこともないような高価な衣服だって寝室の横のウォークインクローゼットに唸るほどある。
だがそれだけではだめなのだ。
人は、相手がいてこその人なのだ。
食事は日に三度、決まった時刻に数人のヤクザたちが大きな銀製のトレンチに食べ切れないほどの御馳走をのせて持ってきてくれた。
ある時、由一は逃げ出すチャンスは今しかないと思い、脱走を試みたことがあった。
だが由一の考えなどお見通しのヤクザたちは、ポケットの中に入れていたオートリモコンで玄関の鍵を無情にもロックしてしまったのだ。
そしていつも食事のセッティングだけをして、さっさと部屋から出て行ってしまう。
「食べ終わった頃、取りに来る。ちゃんと食えよ」
「おとなしくいうことを聞いていれば手荒なまねはしない。だが少しでも逃げる素振りを見せたら俺たちの好きにしてもいいと、堂本さんに言われているんだ。いいか?俺たちは堂本さんのように寛大じゃないんだ。ブチ切れちまったら何をするか分からないぜ?」
十二時をちょっと過ぎた頃、角刈り頭の黒いスーツを着ているヤクザにわざと冷たく言われ、由一は無言のまま頷いた。
堂本から本当にそんなことを言われているかは分からなかったが、とにかくこの一ヶ月で逆らう気力も精神力もまったく消えうせていた。
それに相手はヤクザだが、今の由一には貴重な話し相手だった。
怒らせる気などまったくなかった。
「い、いただきます・・・ 」
由一は、テーブルの上に並べられたフランス料理のフルコースをため息交じりに見つめてから、ゆっくりとフォークで食べ始めた。
このマンションの中に閉じ込められ今日で一ヶ月が過ぎていた。
その日の夜。
堂本は、再び由一の前に姿を現した。
だが、今度は堂本だけではなく、数人の目つきの悪いヤクザたちを従えていた。
その中には、白樺に来て由一を無理やり攫ってきた、あの金髪のヤクザもいた。
「・・・・・どうだ?ここが気に入ったか?」
黒髪をオールバックに撫でつけている堂本は、まるでベッドのように広々としているソファに座って足を組み、立っている由一を見つめて言った。
他のヤクザたちはすぐに、堂本の横に座るように強制したが、由一はそれを徹底的に拒絶した。
そんな由一を片目で見て、スーツ姿の堂本がふふっと笑う。
「まだ逃げることを諦めてないようだな?自分の立場も分かっていないらしい。だがどんなに抵抗しても、ここから逃げ出すことは不可能だ」
冷酷で、ゾクリとするぐらい低音の声だった。
だがこの状況に不本意な由一は、決して諦めていない。
今までだって、どんなひどい状況でも諦めたことなんてなかったんだ。
母親が病死して、天涯孤独の身になったって、必死に頑張ってきたんだ。
こんなことで、私は負けたりしないっ。
「いいえっ。絶対に逃げてみせますから」
由一は堂本を睨みつけるようにしてきっぱりと言った。
その恐れを知らぬ潔さに、思わず周りにいたヤクザたちが顔を見合わせる。
だが、堂本だけはそんな由一を見ても変わらずに、冷淡な笑みを浮かべているだけだった。
「その気の強さがいつまで持つかな?」
「私はっ・・・私は・・・白樺の借金の形にこんなところに連れてこられたこと自体、納得してないです。いくらの借金かは知りませんが、私が働いて必ずお返しします。だから・・・どうか私をここから出してください。お願いしますっ」
由一は、本当は怖くて堪らなかったが、拳を握り締めるようにして懸命に言った。
するとすぐ後ろにいた金髪頭のヤクザが、生意気な口をきく由一に腹が立ったのか、いきなり由一の栗色の髪を掴み上げる。
「てめー、誰に向かって口きいてんだ?ええっ?」
だが、か弱くて無抵抗でいる由一に対してのそんな無謀な行為は、すぐに堂本の一喝によって止められた。
「ヤス、やめろっ!」
「ですが・・・こいつ生意気で・・・」
「いいから、やめろっ」
堂本のビンッと響いた声は、ヤスと呼ばれたヤクザを一瞬にして縮こまらせる。
「由一に二度と触れるな。いいなヤス?」
「は、はいっ」
ヤスと呼ばれたヤクザは、肩を落としてそう言うと、リビングルームの扉の辺りまで後退した。
こんないかついヤクザを、一喝で恐怖せしめてしまうこの堂本という男はいったい何者なのだろうか。由一は、不審そうな顔で堂本を見つめながら、ゆっくりと後ずさった。
「待てっ。お前はここに座れ」
堂本が、由一の足を止め、自分の横に座るように命令する。
すると他のヤクザたちがすぐに由一の腕を掴み、無理やり堂本の横の座らせた。
堂本は横に座った由一の肩に腕を回し、そのまま自分の胸の方に引き寄せる。
「・・・お前今、借金を働いて返すと言ったな?」
堂本は、傷がある右側の顔を近づけて、耳元で聞いた。
由一は、話せば分かってもらえるかもしれないと思い、大きく頷く。
「はいっ、はい確かに言いました。きっと働いてお返しします。一生懸命働いて、必ずお返しします。だからここから出してくださいっ」
由一は初めて、堂本の顔を正面から見つめて言った。
すぐ近くで見る堂本の顔の左右は、まるで対照的だった。
美麗さと醜さが共存し、見事に調和されている。
この凄みと迫力は、そんな二つの融合から生まれている・・・と由一は思った。
堂本が、シガレットケースの中から煙草を取り出し、ふふっと笑う。
「いったい、いくらか知ってるのか?あのオヤジが一晩でつくった借金・・・」
「いくらって、多分・・・五十万とか・・・多くても百万とか・・・でしょう?」
と由一が言うと、堂本は堪えていたものを噴き出すように大声で笑い出した。
由一に考えられる、一晩で負けるマージャンの金額はそれが限界だった。
だが堂本は、ソファの背もたれに身体を預けるようにして思いきり笑っている。
「あっはは・・・わっはは・・・」
「あの・・・」
「多くても百万だと?あっはは・・・あの店を手放してもまだ足りない額だったんだぞ」
と、ヤクザの一人に煙草に火をつけさせている堂本から言われ、由一はそうだったと思った。
あの店は小さくて汚かったけど、でも土地だけ売っても何千万にはなるはずだ。
それでも足りなかったってことは・・・まさか・・・とんでもない額なんじゃ・・・・。
「あ、あの・・・おいくらぐらいなんですか?」
由一の声は、急に小さくなってしまった。
堂本は美味そうに煙草の煙を味わいながら、空いている手で由一の顎をしっかりと捕まえて言う。
「あのオヤジが負けた額は五千万」
「ご、ご、五千万っ!?」
金額を聞いた由一はソファの上で飛び上がり、素っ頓狂な声を出してしまった。
「一生懸命働いて返すって言ったが、どうやって返すんだ?借金には利子ってもんが付くんだぞ?毎月十万や二十万の金、利子にもならない。それをお前でチャラにしてやったんだ。つまり、お前には五千万の価値があるってことだ。よかったな?」
堂本はそう言って、由一の顎を引き寄せてじっと顔を見つめる。
ついさっきまでの由一だったら、猛烈に暴れて抵抗するところなのだが、今は思考停止してしまっていて、無理だった。
どうやったら、一晩で五千万もの借金を作れるんだ?
ハリウッドやラスベガスのカジノじゃあるまいし。
しかもマージャンでなんて。
そもそも賭けマージャンなんて、日本の法律で禁じられていて、違法だろう?
それに、どうして私が借金の形なんだ?
佐川さんの借金なんだから佐川さんが払えばいいのに。
だけど・・・だけど・・・佐川さんには昔助けてもらった恩がある。
母と、まだ幼かった自分を助けてもらった恩がある。
だけど・・・だけど・・・。
「どうした?あまりの金額に驚いて声も出ないか?それとも諦めて、自分の運命を素直に受け入れる気になったか?」
堂本はそう言いながら、由一の頬に唇を寄せた。
由一ははっとしたが、顎を掴まれている力が強くて、動けない。
「じっとしてろ・・・」
と、堂本は由一の頬に唇を這わせていく。
由一は、まるで金縛りにでもあったかのように、まったく動けなかった。
ショックと恐怖と、そして戦慄が由一の全身を駆け巡っている。
由一はこの状況がどういうことなのか、いったい何がどうなっているのか、まったくわからなかった。
この堂本という男は、私をいったいどうするつもりなのか。
逃げても無駄ってことは、つまりここからはもう逃げられないってことなんだろうか?
でもどうして?
どういうことなんだ?
由一の頭の中は、こんがらがってしまっていた。
「お前は借金の形で、今日から俺のものだ。そのことを忘れるなよ?」
堂本は、潰れていない左目だけでじっと見つめて、冷淡な口調でそう言い残し、唖然としている由一の前から去っていく。
由一はすぐに慌てて堂本の後を追いかけた。が、堂本が玄関から出ると、そのドアは閉まると同時にロックされてしまい、ドアノブを回しても、押しても引いてもビクとも動かなかった。
「どーして中から開かないんだ?普通は、逆だろう?どーなっているんだ?」
由一は、モダンな感じの玄関のドアを手でバンバンッと思い切り叩いて必死にドアノブをガチャガチャと弄りながら、怒鳴った。
ドアが開かなくてもこうして怒鳴っていれば、隣の部屋の住人に聞こえるかもしれないと思ったのだ。
ここはマンションで、いくら防音効果があってもこれだけ騒いでいればきっと誰かが気づいて、警察に通報してくれる。
警察が来てくれたら、警察さえ来てくれたらっ。
由一はそんな願いを抱きながら、必死になって騒いでいた。
だがそれがしばらく経っても、いっこうに警察が助けに来てくれる様子はなかった。
それどころか、外の音がまるで聞こえないのだ。
由一が寝ていたリビングルームの南側には、大きな窓があった。
その窓を見て、そうだと由一は手を打つ。
「あっ、そーだ。窓から出ればいいんだっ。なーんだ、そんな簡単なことにどうして気づかなかったんだろう・・・」
由一は、問題がすべて解決したかのように嬉しそうにそう言って、クロスオーバースタイルのカーテンを勢いよく開き、窓の外を見る。
だが由一がそこに見た景色は、想像していたものとはまったく違っていた。
窓は確かにある。
だが、鍵がないのだ。
鍵もないこの窓は、よく見ると開くようには設計されていなかった。
つまり、ただの巨大なガラスが壁代わりに嵌め込まれている窓、そんな感じなのだ。しかも窓の外の景色は、空と雲と、そして遥か下の方に見える、おもちゃのような車と高速道路だった。
この景色はどこかで見たことがある。
そう、確か東京タワーに登った時に見た景色もこんな感じだったのだ。
ということは、今ここにいるこの場所は、東京タワーと同じくらい高い場所ということなのか?
「・・・・・嘘だよね?こんなの・・・嘘だ」
由一は、自分の目で見ている光景が信じられなかった。
ここは高層マンションの上の方にある部屋なのだ。
しかも、ちょっとやそっとの高さじゃない。
まさしく、東京タワーのごとき高層マンションの一室だった。
「これ・・・窓じゃないっ。窓だったとしても・・・どうやって逃げるんだ?こんな高い所から飛び降りたら・・・死んじゃう・・・」
由一は呟くように言いながら、窓の前から恐ろしげに離れ、違う逃げ場所を探して部屋の中を歩き回った。
広々としていて、まるで豪華なモデルルームのような部屋の中には、どこにも逃げ出せそうな所などなかった。
窓はあるが、どれもこれも全部ガラスが嵌め込まれているだけの壁にすぎないのだ。
トイレも、バスルームも、どこからも逃げられない。
「これじゃあ・・・まるっきり籠の中の鳥だ・・・」
由一はヘタッと床に崩れるように座って、突然自分の身に降りかかった恐怖や不安をどうすることもできず、呻くように言った。
ここから逃げられないっ。
あの堂本って人は、どういう人なんだろう?
どうしてこんなひどいことをするんだ?
佐川さんの借金の代わりに私をこんな所に閉じ込めて、どうしようっていうんだ?
由一は、さっき堂本がキスをしようとした時のことを思い出していた。
あの時、どうしてキスなんてしようとしたのか。
自分はれっきとした男なのに。
「・・・・・まさか・・・まさか・・・」
由一は、今の状況を説明することができる唯一の理由に突き当たった。
自分の身は借金の形に堂本というヤクザに売られて、この高級マンションに無理やり閉じ込められている。
それはつまり、自分は堂本の情夫になってしまったということではないのだろうか。
「嘘でしょ・・・まさかね・・・。そんなテレビや映画の世界じゃあるまいし・・・」
と、引きつった顔で笑ってみたが、この状況はどう考えても映画の世界だけの話というわけにはいかないようである。
つまり、本当に借金の形で情夫になったってことなんだ。
顔の半面にひどい傷がある、堂本貴良という男の情夫に。
由一はペタッと床に座ったまま、恐ろしい現実を目の当たりにして声も出せなかった。
いったい、どうしたらいいんだろう。
私はこのままどうなってしまうのだろうか?
由一の頭の中には、まるで自分の姿のように、ヤクザたちに無残にも踏みにじられた向日葵の姿だけが浮かんでいた。