東京スペシャルナイト 上 28
- 2016年01月30日
- 小説, 東京スペシャルナイト
「宇宙!?」
学校からの帰宅途中、誰かに呼ばれた。
振り返ってみると、そこには桜井が顔に汗を光らせて立っていた。
「さ、桜井さんっ!」
まさか桜井がいると思っていなかった宇宙は、思わず大声を出す。
「しぃ・・・静かに」
そんな宇宙の口を手で塞いだ桜井は、人通りの少ない路地に宇宙の身体を連れ込んだ。
注意深く辺りを窺う。
「話があるんです」
「ぼ、僕も・・・。話があってずっと連絡を取っていたんです。でもなかなか桜井さんがつかまらなくて・・・。でもよかった・・・」
と、嬉しそうにしゃべり始めた宇宙の口を、桜井の手がもう一度覆う。
「そのまま静かにして・・・聞いてほしい。実は・・・私のことはもう忘れてほしいんんです。何もかも・・・今までのことはすべてなかったことにしてください」
「・・・・・・!?」
突然の桜井の言葉には、切羽詰まった緊張感があった。
いつもは優しい言葉遣いなのに、今日は少し様子が違う。
何かあったのだろうか?
唇を塞いでいる手が、少し震えているような気がする。
「・・・でも・・・」
と、わけを聞こうとした唇を、もっと強く押さえて桜井が辺りを見渡す。
幸い、暗くて細い路地には二人の他には誰もいなかった。
「とにかく、私のことは忘れるんです。もう二度とかかわってはいけません。 マッサージルームにも二度と来ないでください。いいですね?」
否定を許さない桜井の言葉。
宇宙は、何かとんでもない事態に桜井が巻き込まれたのだと察した。
そうでなければ、桜井ほどの男がこうも取り乱したりしないはずだ。
いったい何が桜井を追い詰めているのか?
そういえば、ホテル街でチンピラに絡まれていたとき、桜井が助けてくれたけど、チンピラたちの様子が少し変だった。
桜井の顔を見知っているような様子だった。
驚きと恐怖と不審さが入り交じったような顔をしていた。
あのときのチンピラたちと何か関係があるんだろうか?
もしかして、こういう状況に追い込んでしまったのは、自分のせいなのではないだろうか?
宇宙はいても立ってもいられず、桜井の手を振りほどいた。
「もしかして、あのときのチンピラたちと何か関係があるんじゃないですか・・・?」
宇宙の問いに、桜井はピクッと眉を動かした。
やっぱり。
やっぱりそうだ。
あのときの街のチンピラたちと桜井さんは、何か関係があるのだ。
「どういうことなのか説明してください。桜井さんを忘れろなんて・・・そんなのできません。だって僕・・・僕・・・桜井さんを好きなんですから。愛しているんですから」
言ってしまった。
ついに言ってしまった。
こんなところで、こんな場面で告白するつもりじゃなかったのに。
つい勢いで言ってしまった。
だが気持ちは本心だし、決していい加減な気持ちで言ったつもりはなかった。
時と場所はまずかったけど、それが宇宙の本当の気持ちだった。
桜井の端正な顔が、驚いたように宇宙を見つめる。
そして両手が伸ばされ、それはギューッと思いきり宇宙の身体を正面から抱きしめた。
分かってはいた。
宇宙の気持ちは知っていた。
だが、こんな緊迫した場面で突然愛を告白された桜井は、今はとてもまずい立場にいることも忘れて、聞き入ってしまっていたのだ。
純真で真心のこもった愛の告白。
時や場所なんて関係なかった。
十年間を空虚に過ごしてきた桜井にとって、花束やプレゼントを用意しているわけではない宇宙の告白、その精いっぱいの愛の言葉は心に衝撃を受けるぐらい嬉しかった。
愛している。
ギュッと身体を抱きしめたまま、ついそう呟いてしまいそうになる。
「宇宙・・・」
だがそれはできなかった。
自分の気持ちを言ってしまったら、もう引き返せなくなってしまう。
あの亨と自分との世界に、愛おしい宇宙を引っ張り込むことなってしまうのだ。
あの亨ことだ。
宇宙をどうするのか、だいたいの想像はつく。
きっといいように弄び、そして最後には客を取らせるために海外に売りさばく。
裏の社会でも顔が利く亨の取る行動は、容易に想像ができた。
だめだ。
宇宙をそんな世界に引っ張り込んではいけない。
宇宙は小学校の教師をしていて、こんなふしだらで淫らな世界とは別世界の人間なのだ。
「いけません。私は宇宙の気持ちを受け入れることはできません。だから諦めてください。好きでも、なんでもないんですから」
今にも宇宙の黒い瞳から視線を逸らせてしまいそうになるのを必死にこらえていた。
「好きでもなんでもないのに、そんなことを言われるのは迷惑です。店の客だからちょっと優しくしてあげただけなのに、勘違いされては困ります。だから店の外で会うのは嫌だったんです」
と、桜井が目を細めてため息交じりに言う。
宇宙はその瞳を見つめ、信じられないというような顔をして桜井を見つめていた。
「う・・・そ・・・。今のは全部嘘だ・・・」
「嘘じゃありません。言ったでしょう。迷惑だと。私は宇宙を店の客の一人としか思ってません・・・」
「嘘だよ・・・嘘。だって・・・ラブホテルで・・・あんなに愛してくれたじゃない。あんなにいっぱい、愛してくれたじゃない?あれはなんだったの?あれも商売の一つだったというの?」
桜井の腕の中から離れた宇宙が、今にも泣き出しそうな顔で言う。
宇宙にはとても信じられなかった。
今までの桜井の優しさと愛情が嘘だったなんて。
商売という名の、偽りだったなんて。
「・・・そうです。あのときは宇宙がチンピラたちに絡まれていたのを助けただけです。ラブホテルに入ったのは・・・ちょっとした気まぐれです。本気じゃありません」
胸がギューッと痛くなっていく。
今までいろいろな嘘をついてきたけど、こんなに胸の奥が痛くなったのは初めてだった。
嘘がこんなにつらいものだなんて初めて知った。
嘘がこんなにも心に痛みを与えるものだなんて、知らなかった。
この痛みを教えてくれたのは宇宙なのだ。
宇宙を愛したからこその胸の痛み。
だが桜井は、胸が詰まるようなそんな痛みに浸っているわけにはいかなかった。
「・・・だからもう私のことは忘れてください。私も少し、遊びが過ぎて宇宙を本気にさせてしまって・・・」
「もういいっ!もう何も言わないでっ!」
宇宙は、桜井の言葉を遮るように大声で叫んだ。
もうこれ以上、桜井の言葉を聞いている勇気がなかった。
これが桜井の本心?
本当に?
あの優しさも温かさも、自分にだけ特別に向けてくれているのかと思っていたのに。
自分だけは特別だと思っていたのに。
だから、スペシャルマッサージやウルトラスペシャルマッサージをやってくれたんだと思っていたのに。
あのラブホテルで一緒にプールに入って、遊んだのだって、僕を愛してくれているからだとばかり思っていたのに。
桜井の笑みの中には、確かに愛情があるって思っていたのに。
「もう・・・もう・・・いい・・・。もう・・・桜井さんなんてだいっきらい!」
宇宙は、大声でわめきながらそう言って、振り返って走っていく。
薄暗い細い路地を、泣きながら宇宙は走っていった。
その後ろ姿を、桜井は生身を削られるような想いで見つめていた。
本当は追いかけていって嘘だと言いたい。
今言ったことはすべて偽りで、本心は心の底から愛していると言ってあげたい。
だが、そんなことをしてしまったら、宇宙を自分のいる卑猥で卑劣な世界に引きずり込むことになってしまう。
亨は、一見クールだがとてもずる賢く、嫉妬深い。
亨は、愛人を何人も囲っている。
だが、それでも桜井を手放そうとはしなかった。
桜井のウルトラスペシャルマッサージは、女で欲求を満たすのが面倒なとき、亨を虜にするのだ。
「宇宙・・・ごめんね。本当にごめん」
桜井は、これでいいんだと自分に言い聞かせながら何度もそう呟いた。
そんなときだった。
桜井の耳に、走っていったはずの宇宙の悲鳴が聞こえる。
「ーーーーーー!」
桜井ははっとした。
「まさかーーーーー」
桜井は、宇宙が駆けていった路地を一目散に走っていった。