「お前は俺の情夫だ。この・・・籠の中から一人で飛び出すことも逃げることも、もちろん勝手に死ぬことも許されないのだ」
「・・・そ、そんな・・・・・」
「俺の命令だけを聞き、俺のためだけに生きてここに住む。もちろん、ここにいる間はなんでもお前の自由だ。何をしてもいい。どんな物だろうと欲しいものは手に入れてやる。それがお前の望みならな」
「やっ・・・やめて・・・」
舐めるように動いていた堂本の唇が、由一の唇に近づいていく。
由一は逃げようともがいたが、それは許されなかった。
「・・・あっ・・・んっ・・・ぐぅ・・・・・」
堂本に唇を激しく塞がれて、ソファの上で『嫌だ』ともがく由一だが、堂本はキスをやめようとはしなかった。
それどころか、どんどん激しく荒々しく、由一の口中を犯していく。
「はっ・・・ぐぅ・・・ううっ・・・」
由一は、いつの間にかソファの上にズズッと倒れるように横になっていた。
その上に、堂本が覆いかぶさってくる。
堂本の重みに由一の身体は押さえ付けられ、こうなってはどうしようもなかった。
それにこんなに濃厚で激しいディープキスをされたのは、由一は初めてだった。
高校生の時、クラスメートの女の子にいきなりキスをされたことがあったが、あの時以来である。ほろ苦い煙草の味とディープキスの激しさが交じり合って、由一の頭の中をクラクラとさせていった。
もう、考えられない。
由一は、連れ去られた時に着ていた白いポロシャツの裾を捲くられ、脱がされながらそう思っていた。
堂本の手がポロシャツの中になんなく入り込み、脇腹から胸へと這い上がっていく。
そして右側の乳首を見つけると、すぐにそれを摘み上げた。
「・・・ んんっ」
由一は、他人に初めて乳首を摘まれた感触に、思わず声を上げてしまった。
だがキスで唇を塞がれていたので、喘ぎ声としては発せられていない。
だが由一が漏らした声は、明らかに感じている時の、アノ声だった。
由一は、ギョッとしてしまった。
こんな状況で、ヤクザに乳首を揉まれて感じてるなんて、信じられなかった。
「・・・身体は素直だぞ、由一」
堂本は、そんな由一の身体の反応を誰よりも早く察知していた。
キスを途中でやめ、小気味よさそうにくくっと笑う。
由一はそのいやらしい笑いを見て、カッと頭に血が上ってしまった。
こんな高層マンションの一室に無理やり閉じ込められ、自分の知らない高額な借金を押し付けられ、しかもヤクザな男にキスまでされてるっ。
昨日まではお花屋さんでバイトしていて、仕事が楽しくて、毎日が楽しくて、自分の運命がこんなになっちゃうなんてとても想像できなかったのに。
それなのにヤクザにキスをされて、感じてしまっているなんて信じられないっ!
「いやっ・・・いやぁぁ・・・・・」
由一は、キスに翻弄されていく自分にブレーキをかけるように、目の前の顔に爪を立てて抵抗した。
由一の爪は、また堂本の右頬に当たった。
今度は、うっすらと頬から血が出るくらい強く引っ掻いていた。
引っ掻かれた堂本の顔が、あっという間に恐ろしい形相に変貌していく。
「俺の顔にこれ以上傷をつける気か?ええっ?」
堂本の声はゾクリとするほど低くて、由一を震えさせた。
今までの穏やかに話していた堂本とは、まるで別人である。
「・・・俺を怒らせるなと・・・言ったはずだ。忘れたのか?」
堂本は、手の甲で血をぬぐって、由一のポロシャツの襟元を締め上げた。
由一が引っ掻いた傷自体はたいしたことはない。
だが、由一がこの期に及んでもまだ抵抗しようとするその根性が気に入らなかったのだ。
こんなに優しく大切に扱ってやっているのに、由一はいっこうに心を開こうとしないのだ。
身体はこんなに素直で感じているというのに。
そのギャップが、堂本には我慢ができなかった。
由一の襟元を締めている手に、ギュッと力が籠る。
普通の女ならば、暴力団組織の幹部である堂本貴良に望まれ、こんな高級マンションまで与えられたら泣いて喜ぶというのに。
どうしてそれが、由一には通じないのだ。
堂本は、苛立っていた。
「うっ・・・ぐう・・・・・」
由一は、ソファの上で横になったまま首を絞められ、自分はもしかしたらこのまま死ぬかもしれないと思い、目を瞑った。
このまま死んでしまうのだろうか。
そう思ったとたん、堂本の手から力が抜けた。
「ごほっ・・・」
咳き込みながら堂本を見上げると、堂本はソファから離れていた。
「・・・ 仕方がないな。一ヶ月後にまた来るとしようか・・・。その時までには考えも変わるだろう」
堂本は、片目で由一を見下ろし、ヤクザたちと一緒に部屋から出て行く。
由一はまたこの部屋の中に一人で取り残されてしまうのかと思い、慌てて立ち上がって追いかけようとした。だが、足に力が入らない。
絞められていた喉が痛くて、満足に呼吸ができない。
「ま・・・待って・・・お・・・お願い・・・。待って・・・つれてって・・・」
由一が懸命に後を追って玄関ホールまで行くと、そこにはもう誰の姿もなかった。
ドアノブをガチャガチャッと音を立てて動かしてみてもドアは開かなかった。
また、その場に崩れるようにして座り込んでしまった。
それから一ヶ月間、由一はこのマンションの一室から一歩も外に出ることができなかった。
もちろん、たった一人で、だ。
最初のうちはなんとか逃げ出そうとあれこれと考えていた由一だったが、日が経つにつれてそんな気力もなくなっていった。
何より由一を不安にさせたのは、人との接触をいっさい断たれたことだった。
人間という生き物はたった一人では生きていけない。
話相手というものが存在しなければ、正常な理性や精神状態が保てないのだと、実感した一ヶ月だった。
この部屋には何もかもが揃っている。
巨大画面のBSテレビもジェットバス付きのバスタブも、見たこともないような高価な衣服だって寝室の横のウォークインクローゼットに唸るほどある。
だがそれだけではだめなのだ。
人は、相手がいてこその人なのだ。
食事は日に三度、決まった時刻に数人のヤクザたちが大きな銀製のトレンチに食べ切れないほどの御馳走をのせて持ってきてくれた。
ある時、由一は逃げ出すチャンスは今しかないと思い、脱走を試みたことがあった。
だが由一の考えなどお見通しのヤクザたちは、ポケットの中に入れていたオートリモコンで玄関の鍵を無情にもロックしてしまったのだ。
そしていつも食事のセッティングだけをして、さっさと部屋から出て行ってしまう。
「食べ終わった頃、取りに来る。ちゃんと食えよ」
「おとなしくいうことを聞いていれば手荒なまねはしない。だが少しでも逃げる素振りを見せたら俺たちの好きにしてもいいと、堂本さんに言われているんだ。いいか?俺たちは堂本さんのように寛大じゃないんだ。ブチ切れちまったら何をするか分からないぜ?」
十二時をちょっと過ぎた頃、角刈り頭の黒いスーツを着ているヤクザにわざと冷たく言われ、由一は無言のまま頷いた。
堂本から本当にそんなことを言われているかは分からなかったが、とにかくこの一ヶ月で逆らう気力も精神力もまったく消えうせていた。
それに相手はヤクザだが、今の由一には貴重な話し相手だった。
怒らせる気などまったくなかった。
「い、いただきます・・・ 」
由一は、テーブルの上に並べられたフランス料理のフルコースをため息交じりに見つめてから、ゆっくりとフォークで食べ始めた。
このマンションの中に閉じ込められ今日で一ヶ月が過ぎていた。
その日の夜。
堂本は、再び由一の前に姿を現した。
だが、今度は堂本だけではなく、数人の目つきの悪いヤクザたちを従えていた。
その中には、白樺に来て由一を無理やり攫ってきた、あの金髪のヤクザもいた。
「・・・・・どうだ?ここが気に入ったか?」
黒髪をオールバックに撫でつけている堂本は、まるでベッドのように広々としているソファに座って足を組み、立っている由一を見つめて言った。
他のヤクザたちはすぐに、堂本の横に座るように強制したが、由一はそれを徹底的に拒絶した。
そんな由一を片目で見て、スーツ姿の堂本がふふっと笑う。
「まだ逃げることを諦めてないようだな?自分の立場も分かっていないらしい。だがどんなに抵抗しても、ここから逃げ出すことは不可能だ」
冷酷で、ゾクリとするぐらい低音の声だった。
だがこの状況に不本意な由一は、決して諦めていない。
今までだって、どんなひどい状況でも諦めたことなんてなかったんだ。
母親が病死して、天涯孤独の身になったって、必死に頑張ってきたんだ。
こんなことで、私は負けたりしないっ。
「いいえっ。絶対に逃げてみせますから」
由一は堂本を睨みつけるようにしてきっぱりと言った。
その恐れを知らぬ潔さに、思わず周りにいたヤクザたちが顔を見合わせる。
だが、堂本だけはそんな由一を見ても変わらずに、冷淡な笑みを浮かべているだけだった。
「その気の強さがいつまで持つかな?」
「私はっ・・・私は・・・白樺の借金の形にこんなところに連れてこられたこと自体、納得してないです。いくらの借金かは知りませんが、私が働いて必ずお返しします。だから・・・どうか私をここから出してください。お願いしますっ」
由一は、本当は怖くて堪らなかったが、拳を握り締めるようにして懸命に言った。
するとすぐ後ろにいた金髪頭のヤクザが、生意気な口をきく由一に腹が立ったのか、いきなり由一の栗色の髪を掴み上げる。
「てめー、誰に向かって口きいてんだ?ええっ?」
だが、か弱くて無抵抗でいる由一に対してのそんな無謀な行為は、すぐに堂本の一喝によって止められた。
「ヤス、やめろっ!」
「ですが・・・こいつ生意気で・・・」
「いいから、やめろっ」
堂本のビンッと響いた声は、ヤスと呼ばれたヤクザを一瞬にして縮こまらせる。
「由一に二度と触れるな。いいなヤス?」
「は、はいっ」
ヤスと呼ばれたヤクザは、肩を落としてそう言うと、リビングルームの扉の辺りまで後退した。
こんないかついヤクザを、一喝で恐怖せしめてしまうこの堂本という男はいったい何者なのだろうか。由一は、不審そうな顔で堂本を見つめながら、ゆっくりと後ずさった。
「待てっ。お前はここに座れ」
堂本が、由一の足を止め、自分の横に座るように命令する。
すると他のヤクザたちがすぐに由一の腕を掴み、無理やり堂本の横の座らせた。
堂本は横に座った由一の肩に腕を回し、そのまま自分の胸の方に引き寄せる。
「・・・お前今、借金を働いて返すと言ったな?」
堂本は、傷がある右側の顔を近づけて、耳元で聞いた。
由一は、話せば分かってもらえるかもしれないと思い、大きく頷く。
「はいっ、はい確かに言いました。きっと働いてお返しします。一生懸命働いて、必ずお返しします。だからここから出してくださいっ」
由一は初めて、堂本の顔を正面から見つめて言った。
すぐ近くで見る堂本の顔の左右は、まるで対照的だった。
美麗さと醜さが共存し、見事に調和されている。
この凄みと迫力は、そんな二つの融合から生まれている・・・と由一は思った。
堂本が、シガレットケースの中から煙草を取り出し、ふふっと笑う。
「いったい、いくらか知ってるのか?あのオヤジが一晩でつくった借金・・・」
「いくらって、多分・・・五十万とか・・・多くても百万とか・・・でしょう?」
と由一が言うと、堂本は堪えていたものを噴き出すように大声で笑い出した。
由一に考えられる、一晩で負けるマージャンの金額はそれが限界だった。
だが堂本は、ソファの背もたれに身体を預けるようにして思いきり笑っている。
「あっはは・・・わっはは・・・」
「あの・・・」
「多くても百万だと?あっはは・・・あの店を手放してもまだ足りない額だったんだぞ」
と、ヤクザの一人に煙草に火をつけさせている堂本から言われ、由一はそうだったと思った。
あの店は小さくて汚かったけど、でも土地だけ売っても何千万にはなるはずだ。
それでも足りなかったってことは・・・まさか・・・とんでもない額なんじゃ・・・・。
「あ、あの・・・おいくらぐらいなんですか?」
由一の声は、急に小さくなってしまった。
堂本は美味そうに煙草の煙を味わいながら、空いている手で由一の顎をしっかりと捕まえて言う。
「あのオヤジが負けた額は五千万」
「ご、ご、五千万っ!?」
金額を聞いた由一はソファの上で飛び上がり、素っ頓狂な声を出してしまった。
「一生懸命働いて返すって言ったが、どうやって返すんだ?借金には利子ってもんが付くんだぞ?毎月十万や二十万の金、利子にもならない。それをお前でチャラにしてやったんだ。つまり、お前には五千万の価値があるってことだ。よかったな?」
堂本はそう言って、由一の顎を引き寄せてじっと顔を見つめる。
ついさっきまでの由一だったら、猛烈に暴れて抵抗するところなのだが、今は思考停止してしまっていて、無理だった。
どうやったら、一晩で五千万もの借金を作れるんだ?
ハリウッドやラスベガスのカジノじゃあるまいし。
しかもマージャンでなんて。
そもそも賭けマージャンなんて、日本の法律で禁じられていて、違法だろう?
それに、どうして私が借金の形なんだ?
佐川さんの借金なんだから佐川さんが払えばいいのに。
だけど・・・だけど・・・佐川さんには昔助けてもらった恩がある。
母と、まだ幼かった自分を助けてもらった恩がある。
だけど・・・だけど・・・。
「どうした?あまりの金額に驚いて声も出ないか?それとも諦めて、自分の運命を素直に受け入れる気になったか?」
堂本はそう言いながら、由一の頬に唇を寄せた。
由一ははっとしたが、顎を掴まれている力が強くて、動けない。
「じっとしてろ・・・」
と、堂本は由一の頬に唇を這わせていく。
由一は、まるで金縛りにでもあったかのように、まったく動けなかった。
ショックと恐怖と、そして戦慄が由一の全身を駆け巡っている。
由一はこの状況がどういうことなのか、いったい何がどうなっているのか、まったくわからなかった。
この堂本という男は、私をいったいどうするつもりなのか。
逃げても無駄ってことは、つまりここからはもう逃げられないってことなんだろうか?
でもどうして?
どういうことなんだ?
由一の頭の中は、こんがらがってしまっていた。
「お前は借金の形で、今日から俺のものだ。そのことを忘れるなよ?」
堂本は、潰れていない左目だけでじっと見つめて、冷淡な口調でそう言い残し、唖然としている由一の前から去っていく。
由一はすぐに慌てて堂本の後を追いかけた。が、堂本が玄関から出ると、そのドアは閉まると同時にロックされてしまい、ドアノブを回しても、押しても引いてもビクとも動かなかった。
「どーして中から開かないんだ?普通は、逆だろう?どーなっているんだ?」
由一は、モダンな感じの玄関のドアを手でバンバンッと思い切り叩いて必死にドアノブをガチャガチャと弄りながら、怒鳴った。
ドアが開かなくてもこうして怒鳴っていれば、隣の部屋の住人に聞こえるかもしれないと思ったのだ。
ここはマンションで、いくら防音効果があってもこれだけ騒いでいればきっと誰かが気づいて、警察に通報してくれる。
警察が来てくれたら、警察さえ来てくれたらっ。
由一はそんな願いを抱きながら、必死になって騒いでいた。
だがそれがしばらく経っても、いっこうに警察が助けに来てくれる様子はなかった。
それどころか、外の音がまるで聞こえないのだ。
由一が寝ていたリビングルームの南側には、大きな窓があった。
その窓を見て、そうだと由一は手を打つ。
「あっ、そーだ。窓から出ればいいんだっ。なーんだ、そんな簡単なことにどうして気づかなかったんだろう・・・」
由一は、問題がすべて解決したかのように嬉しそうにそう言って、クロスオーバースタイルのカーテンを勢いよく開き、窓の外を見る。
だが由一がそこに見た景色は、想像していたものとはまったく違っていた。
窓は確かにある。
だが、鍵がないのだ。
鍵もないこの窓は、よく見ると開くようには設計されていなかった。
つまり、ただの巨大なガラスが壁代わりに嵌め込まれている窓、そんな感じなのだ。しかも窓の外の景色は、空と雲と、そして遥か下の方に見える、おもちゃのような車と高速道路だった。
この景色はどこかで見たことがある。
そう、確か東京タワーに登った時に見た景色もこんな感じだったのだ。
ということは、今ここにいるこの場所は、東京タワーと同じくらい高い場所ということなのか?
「・・・・・嘘だよね?こんなの・・・嘘だ」
由一は、自分の目で見ている光景が信じられなかった。
ここは高層マンションの上の方にある部屋なのだ。
しかも、ちょっとやそっとの高さじゃない。
まさしく、東京タワーのごとき高層マンションの一室だった。
「これ・・・窓じゃないっ。窓だったとしても・・・どうやって逃げるんだ?こんな高い所から飛び降りたら・・・死んじゃう・・・」
由一は呟くように言いながら、窓の前から恐ろしげに離れ、違う逃げ場所を探して部屋の中を歩き回った。
広々としていて、まるで豪華なモデルルームのような部屋の中には、どこにも逃げ出せそうな所などなかった。
窓はあるが、どれもこれも全部ガラスが嵌め込まれているだけの壁にすぎないのだ。
トイレも、バスルームも、どこからも逃げられない。
「これじゃあ・・・まるっきり籠の中の鳥だ・・・」
由一はヘタッと床に崩れるように座って、突然自分の身に降りかかった恐怖や不安をどうすることもできず、呻くように言った。
ここから逃げられないっ。
あの堂本って人は、どういう人なんだろう?
どうしてこんなひどいことをするんだ?
佐川さんの借金の代わりに私をこんな所に閉じ込めて、どうしようっていうんだ?
由一は、さっき堂本がキスをしようとした時のことを思い出していた。
あの時、どうしてキスなんてしようとしたのか。
自分はれっきとした男なのに。
「・・・・・まさか・・・まさか・・・」
由一は、今の状況を説明することができる唯一の理由に突き当たった。
自分の身は借金の形に堂本というヤクザに売られて、この高級マンションに無理やり閉じ込められている。
それはつまり、自分は堂本の情夫になってしまったということではないのだろうか。
「嘘でしょ・・・まさかね・・・。そんなテレビや映画の世界じゃあるまいし・・・」
と、引きつった顔で笑ってみたが、この状況はどう考えても映画の世界だけの話というわけにはいかないようである。
つまり、本当に借金の形で情夫になったってことなんだ。
顔の半面にひどい傷がある、堂本貴良という男の情夫に。
由一はペタッと床に座ったまま、恐ろしい現実を目の当たりにして声も出せなかった。
いったい、どうしたらいいんだろう。
私はこのままどうなってしまうのだろうか?
由一の頭の中には、まるで自分の姿のように、ヤクザたちに無残にも踏みにじられた向日葵の姿だけが浮かんでいた。
由一が目を覚ましたのは、ソファの上だった。
ふかふかのベージュのソファは、由一の身体をすっぽりと優しく包み込むような高級なものだった。
白い大理石のテーブルを挟んで向こう側にある大きなソファに、形の違ういくつものクッションが置かれている。
床はベージュを基調とした花柄の絨毯が敷き詰められ、天井を見るとクラシカルなシャンデリアが光っていた。
壁にはロココ調のブラケットがあり、日が差し込んでいる大きな窓にはクロスオーバースタイルのレースカーテンが揺らめいている。
大きな飾り棚の中の調度品も、見たことないものばかりで、高価そうな代物ばかりである。
広くてセンスの良い部屋は、まるで外国の高級ホテルの一室のようだった。
だが不思議なことに、誰もいない。
「・・・ここ、どこだろう?」
由一は、まだぼやけている頭を重そうにしながら、ソファから足を下ろした。
そしてそのまま立ち上がろうとしたが、薬から覚めたばかりの下半身には力が入らなかった。
ガタンッと、前につんのめるような格好になってしまった由一は、とっさにテーブルに手をついて転ぶのを防いだ。
重々しくて大きな楕円形をした大理石のテーブルは、そんな由一をしっかりと支えてくれた。
「・・・まだ、動かない方がいいぞ」
「・・・!?」
誰もいないと思っていた由一は、人の声に驚いて思わずまた転びそうになってしまった。
「あ、あの・・・?」
「あの薬はそんなに簡単には覚めない。もう少し・・・ソファで横になっていた方がいい」
その声は、隣接するサイドリビングルームから聞こえてくる。
由一は、ふらふらした足を引きずるようにして、ソファの端に掴まりながら、声の聞こえた方へ歩いていく。
隣のサイドリビングルームは、由一が寝ていた部屋よりもずっと広く、落ち着いた雰囲気で、暖炉まであった。
「寝ていろと、言っただろう?」
声の主は、その部屋にある一人掛けのソファにゆったりと座っていた。
「・・・・・・・」
由一が、目の前の男性の顔を見て思わず言葉を失ってしまう。
なぜなら、ソファに足を組んで座っている男性の顔の右側には、額から頬にかけてひどい切り傷の痕があったからだった。
額から口元に達するくらいの縦長の傷が目を塞いでしまっていて、右目がまったく開かない状態だった。
だが、醜い傷に反して、男性の左側の顔は驚くほど美麗だった。
くっきりとした切れ長の瞳と筆で描いたように整った眉。
すらりとした鼻筋と男らしい顎の線。
そして少し厚めの唇は、由一を見て少しだけ笑っているように見えた。
年齢は、三十歳を少し過ぎたぐらいだろうか?
「この顔に驚いたのか?」
「あっ・・・いいえ。そんなことは・・・」
由一は、自分がとても失礼な顔をして見ていたことに気づき、慌てて視線を外して顔を伏せた。
まるで、化け物でも見たような顔で見つめていたに違いない。
なんて失礼なことを・・・そう思い、自分を責めている由一を見て、男はふふっと笑って立ち上がった。
立ち上がると、とても高価なスーツを着ていたのだと分かる。
それに、ずいぶんと背が高くて肩幅も広い。
「あ、あの・・・?」
「そんな顔をしなくてもいい。俺はこの傷のことはまったく気にしていない。一つの教訓にはしているがな。むやみに人を信用するなという、教訓だ」
男の声はどこか威圧的で低いのだが、とても滑らかな響きがあった。
魅力的・・・というべき声だった。
「あの・・・ここはどこですか?」
由一は、近寄ってくる男性から逃げるように足をゆっくり後退させながら、聞いた。
別に逃げようと思っているわけではなかったのだが、危険を敏感に察知して、足が勝手に後退してしまうのだ。
美麗だが、ひどく醜い顔がゆっくり近づいてくる。
由一の足はソファの背もたれに当たり、これ以上後退できなくなっていた。
「ここはどこだと聞くよりもまず、どうして自分はここにいるのかを聞いた方がいいんじゃないのか?」
右頬にひどい傷のある男性は、そう言って由一に手を伸ばした。
そして動けないでいる由一の頬に触れ、そのまま指で掴んでしまう。
「・・・・・あの・・・どうして・・・私はここに・・・?」
そう聞いた由一の声は、震えていた。
この訳の分からない状況では、無理もなかった。
濃紺のストライプのスーツを着ている男は、由一の顎を引き寄せながら言った。
「覚えていないのか?白樺で何があったのか・・・」
「・・・白樺?あっ、あの人たちが来て・・・私を無理に・・・」
由一は、ようやく意識を失う前の出来事を思い出した。
あの時確か、金髪のヤクザっぽい男が言っていた。
佐川さんが負けたマージャンの借金の形に連れていく。
堂本さんが呼んでいるとか・・・なんとか。
それから記憶が途切れてしまって、気がついたらここにいたのだ。
ということは、ここはー・・・・・?
「あの・・・あなたはもしかして・・・堂本さんって方ですか?」
由一が背の高い男を見上げるようにして聞くと、男はふふっと片目の顔で笑った。
近くで見ると、男の黒い瞳はひどく冷たい感じがして、同時に寂しさのようなものも感じた。
優しさとか労りとか、そういった温かな感情がまるで感じられない。
由一は、顎を掴まれたまま、ゾゾッと背筋を震わせた。
「そう、俺が堂本貴良だ。よく覚えておけよ」
と、堂本が由一の顎を強引に引き寄せ、いきなりキスをしようとする。
由一はとっさに、堂本の顔に爪を立てて引っ掻くようにしてキスから逃れた。
爪で引っ掻かれた堂本の右頬には、ちょっとだけ赤く跡が残った。
「・・・・・・」
堂本は、引っ掻かれた箇所を指で触りながら、ふふっと笑う。
引きつるような軽い痛みはある。だが、血は出ていない。
「・・・俺の頬に、これ以上傷をつける気か?」
「あの・・・ごめんなさいっ」
由一は、素直に謝ってしまった。
傷を負っている頬に、爪を立てるつもりなどなかったのだ。
ただ急にキスされそうになったから、つい・・・。
「お前に一つだけ言っておく。俺を怒らせるな。いいな?」
「あの・・・」
「それともう一つ。ここから逃げようと思っても無駄だ。まぁ、そうはいってもきっと逃げ出そうと無駄な努力をするんだろうが・・・」
と言った堂本が、由一の顎から指を離す。
次の日の朝、白いポロシャツとベージュのチノパン姿の由一が店の戸を開けると、そこには顔面蒼白の佐川がコンクリートの床にしゃがみこんでいた。
「佐川さん?どうしたんですか?」
驚いた由一が側に駆け寄り、佐川の肩を揺する。
「う・・・ん・・・ぐぇっ」
佐川は、まだ酔っぱらっていて、衣服がひどく汚れていた。
床には、佐川が吐いたものが散らばっている。
酒の飲み過ぎかと思った由一だったが、それにしてもいつもと様子が違う。
「何かあったんですか?」
こんな醜態を見せるまで佐川が飲むのは、珍しかった。
「や・・・やっちまった・・・。またやっちまった・・・うう゛っ・・・」
泣いているのか呻いているのか分からないくらい汚れてグチャグチャの顔で、佐川が何度も同じことを言う。
「何をやっちゃったんですか?佐川さんっ?」
由一は強く肩を揺さぶって、宙をさ迷っている佐川の目を自分の目に向かせた。
すると、由一の顔を見たとたん、佐川は驚いてしゃがんだまま後ずさる。
「ゆ、由一っ!うわぁぁーーーーーぁぁ・・・許してくれぇぇー。どうしようもなかったんだ!」
「佐川さんっ!?」
「俺は・・・俺は・・・全然その気はなかったんだけど。だけど・・・あいつらが帰してくれなくて・・・。それで、つい・・・」
言っている意味がまったく分からない。
由一は眉間に皺を寄せるようにして、佐川の顔を覗き込んだ。
「すまない由一っ。俺のせいで・・・俺のせいで・・・」
「だから、何がどうしたんですか?ちゃんと説明をしてくれないと分かりません」
「俺が・・・俺がぁぁ・・・・・」
と、佐川が訳を話そうとしたその時、いきなり店の扉が開いて、ドカドカと数人の男たちが店の中に入ってきた。
その男たちは、普通のサラリーマンの風貌ではなかった。
派手なスーツと派手なネクタイ。そして磨いたばかりのような洒落たデザインの革靴。
金髪もいれば、角刈りもいる。
「その先の説明は、俺たちがしてやるぜ?」
中でもひときわ体格のいい金髪の男が、由一の前にズカズカと近寄ってきて、そう言った。
「誰ですか・・・あなたたちは?お店はまだですけど・・・」
と、由一が真面目な顔で答えると、数人のヤクザ風の男たちは『ガハハ』と下品な笑い声を上げてのけ反った。
「俺たちは花を買いに来たんじゃねーんだ」
と、目つきの鋭い男が、指でポンッと向日葵の花を叩く。
「早い話が借金の取り立てだ」
「借金の取り立て?」
由一は、おもむろに綺麗な顔を顰めた。
「佐川さは昨夜、賭けマージャンでひどく負けたんだよ。その結果、この店の何もかもが借金の抵当ってわけだ。分かったか?」
金髪男の言葉に、由一はようやく事の次第をのみ込んだ。
あれほどやめると言っていたのに、またマージャンをしたのだ。
しかも、この店の抵当権まで賭けて。
「・・・本当なんですか、佐川さん?」
由一の問いに、佐川は涙でグチャグチャになった顔を何度も頷かせた。
だが、心底脅え切っている佐川の様子は、問題がそれだけではないことを由一に知らせていた。
「・・・まだ何かあるんですね?」
「おおっ、察しがいいじゃねーか。そうなんだよ。実はな、このオヤジ。最後には賭けるものがなくなっちまってな。で、ついに・・・店の看板であるお前を賭けたってわけだ」
「・・・・・・・・!?」
由一は、何を言われたのか分からない。
「分からねーか?そうだろうな。まっ、普通は分からねーよ。だが、俺たちについてくれば嫌でも分かるさ」
と、ヤクザたちが由一の腕を掴み、強引に引き寄せて連れていこうとする。
由一はとっさに逃げようとしたが、すぐに捕まってしまった。
「は、離してくださいっ」
「だめだ。お前は借金の形に連れていく。堂本さんがお呼びなんだ」
「堂本さん?誰ですかっ、それは?」
由一はヤクザたちに捕まりながらも、手足をバタつかせて聞いた。
「そのうちに分かるさ。さてと、行こうか?」
「あっ・・・離してっ!どこに連れていくんですか?離してくださいっ」
由一は、狭い店の中で必死に抵抗する。
するとその拍子に、花瓶に挿してあった向日葵の花が倒れ、床に散る。
ヤクザたちはその花を踏み散らしながら、由一を店から連れ出した。
由一は、踏まれてグシャグシャになってしまった向日葵を悲しげに見て、それから、佐川に視線を向けた。
佐川は、店の隅でブルブルと震えている。
「す、済まないっ。由一・・・本当に済まないっ。こうするしかなかったんだ。お前を差し出せば店は取らないって脅されて・・・つい・・・。俺が悪いんだっ、俺が・・・。許してくれぇーーーーーっ」
「佐川さんっ!佐川さんっ」
「許してくれぇぇーーーーーっ」
佐川の震える叫び声が聞こえる。
だが由一は、佐川の叫び声を最後まで聞けずに、薬によって意識を奪われていた。
「・・・・・んっ・・・・・」
鼻と口を押し当てられたハンカチには、睡眠作用のある薬がたっぷりと染み込んでいた。
黒い日本車の後部座席に、意識のないグッタリとした由一が乗せられ、その横に金髪頭のヤクザが乗り込む。
そして他のヤクザたちは、それぞれ違う車に乗り込み急発進させる。
佐川は、車の走り去る音を聞きながらメチャクチャになってしまった店の中で頭を抱えるようにして震えていた。
由一がフラワーショップ『白樺』で働くようになってからというもの今にもつぶれそうだった白樺は、みるみるうちに経営が上向いていった。
溜まっていた金融業者への借金も少しずつ返済に回り、白樺の経営は順調だった。
一時はつぶれるのを覚悟で、どうしてもここで働きたいと言ってきた由一を、半ばやけくそで雇った佐川だったが、こうなると由一は神様のような存在である。
由一の姿は神様というよりは天使様に近かったが、心まで天使様だったことに驚いていた。
センスがいいだけじゃなくて、つらい仕事を押し付けても文句一つ言わないで、一生懸命働いてくれるのだ。
そんな由一の評判を聞きつけて、白樺は毎日さまざまな客層で溢れていた。
「ありがとうございましたっ」
由一が最後のお客を見送ると、佐川はふーっと大きくため息を吐いて、パイプ椅子にドカッと腰を下ろした。
「やっと終わったか・・・。今日も忙しかったな」
「はいっ。仕入れたお花がほとんどなくなってしまいましたね」
と、由一が箒で床に散らばっている葉っぱをテキパキと掃除しながら嬉しそうに言う。
紺色のエプロンに白いトレーナー。それに黒いジーパンと安物のスニーカーを履いている由一を見て、佐川はずっと心の中で思っていた疑問を口にした。
「・・・由一くらいの容姿があったら、普通はもっといい服を着てもっといい靴を履いて・・・稼ごうと思えばいくらでも稼げるのに、どうして花屋なんだ?」
唐突な質問だった。
だが由一は、ちり取りの中にゴミを箒で掃き入れながら少し笑って答える。
「お花屋さんが好きだからですよ。決まってるじゃないですか」
「だけどな・・・。それだったら別にうちの花屋じゃなくてもいいだろう?他の花屋から引き抜きがきてるのは知ってるし、高給取りになれるのを断ってまでどうしてこんなボロい花屋で時給九百円のバイト代で働いているのか、ちっとも分からないんだよなー。何か特別な理由でもあるのか?いや、俺はとっても助かってるんだ。由一のおかげで借金もだいぶ減ってきたし、この店も売らなくて済んだんだから。だけどな、どーしても分からないんだ。なんでうちなんだ?」
佐川の言っていることはもっともだった。
由一のように素晴らしい技術と教養と美が共存している青年は、滅多にいるものじゃない。
いや、探そうと思っても無理である。
そんな青年がどうして?
「このお花屋さんが好きなんです。理由は、それだけです」
由一はどこかで昔を懐かしむような顔でそう言って、店の奥に行ってしまう。
「ここにある菊、水切りしてから帰りますから」
と、由一が奥の水場から言う。
佐川は『ああ、頼む』と返事をして、由一が答えてくれた言葉の意味を考えていた。
この花屋が好きって、よく分からんなー?
佐川は少し考え込んでいたが、答えが見つからなかったのか、諦めたように椅子から立ち上がると帰り支度を始めた。
「じゃあ、俺は飲みに行くから。由一も早く帰れよ」
「はーい。お疲れさまでしたっ」
「お疲れー」
佐川は、一週間分の売り上げの入った鞄を脇に抱えるようにして、店を出て行く。
これから行きつけの小料理屋で一杯やるつもりなのだ。
酒と賭け事が好きな佐川は、親から引き継いだ花屋をそのために傾かせてしまったのだが、最近は由一のおかげで懐が暖かい。
借金で首がまわらなかった時のことなど、もう頭の中にはなかった。
まったく。どういう理由でうちの花屋にいるのか知らないが、由一のおかげで毎晩酒は飲めるし、負けが祟ってずっと断っていたマージャンだって始められるようになったんだから、感謝しなくちゃな。
佐川は内心そんなことを思いながら、大金が入っている鞄を大切そうに撫でて、行きつけの店の暖簾を潜っていく。
「いらっしゃい」
「あっ。ビール、ビール。それとつまみは適当にね」
「佐川さんっ、最近は景気がいいらしいね。あの由一君のおかげかい?」
「ああ、そうだよ。まったく、由一様、様だ」
佐川は大声で笑いながら、上機嫌でカウンターの席にドカッと座った。
※ この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件等とは、いっさい関係ありません。
季節は春。
「あの、すみません。花束・・・欲しいんですが。五千円くらいで、できますか?」
今日のお花屋さんは忙しかった。
しかも今日は日曜日。
お花屋さんは、いつもよりずっとずっと忙しいのだ。
「はい。もちろんできますよ。バースデー用ですか?」
籐の籠の中に、スイートピーを使ってフラワーアレンジメントを作っていた綺麗な顔立ちの由一は、少し恥ずかしそうな声で花束を注文してきた男性を振り返った。
グレーのスーツ姿で、ちょっと照れ笑いをしている一人の中年の男性が立っている。
由一は、花屋の前で恥ずかしそうにしている男性を見て、ニッコリと優しく微笑んだ。
「花束でよろしいですか?」
男性とは思えないくらいの美しい由一の微笑みを見て、そのサラリーマンははっとしてしまう。
妻のために花束を買いに来たことなど、一瞬忘れてしまったほどだ。
由一の年齢は二十歳ぐらいだった。
大きな二重の黒い瞳がとても印象的で、日に焼けていない白い肌には染み一つなかった。
眉は少し細めで、形のよい朱色の唇と睫を伏せた時の表情には、ドキッとするような色香が漂っていた。
「どのような花がお好みですか?」
「えっと・・・その・・・」
サラリーマンはそんな由一に見とれてしまい、一瞬言葉を失ってしまう。
だが由一は、そんな男性を違った観点で見ていた。
お花屋さんという、華やかで花の甘い香りが立ちこめている店は、サラリーマンにしてみれば、デパートの女性下着売り場と同じくらい恥ずかしくて居心地の悪いところ。
だからちょっと照れているのだと。
正直店に入ってきたときはそういう感情もあったが、今は由一の可憐な美しさに度肝を抜かれてしまった。
「なんでもいいんですが・・・」
栗色のフワフワッとした短めの髪がとても清潔感を感じさせる由一は、キーパーの前でうろうろとしてさまざまな花を物色している、サラリーマンを優しく見つめて聞く。
こんなふうに顔を赤らめている男性は、大体いつも同じようなことを言う。
「・・・つ、妻の・・・誕生日なんだ。その・・・花束を贈るのは久しぶりで・・・いや、結婚して初めてかな?とにかく、どんな花を贈ったら喜ばれるか分からなくて・・・」
サラリーマンは、由一にチラッと視線を合わせてから、スーツの内ポケットに手を入れた。
そして黒い財布を取り出し、必死になんとか落ち着きを取り戻そうとしている。
愛する妻のために、花束を買うことは恥ずかしいことじゃないのに。
と、由一はサラリーマンの落ち着きのない様子をいつも勝手にそう思い込んでいたのだ。
実は、由一の姿の美しさに男性たちが圧倒されているとも知らないで。
「奥様はどんな花がお好きか、ご存知ですか?」
「・・・そうだな・・・。白い百合とか・・・好きだったかな?」
「百合ですか。分かりました」
由一は、これから作る花束を頭の中で思い描きながら、キーパーの戸を開けた。
そして、冷房が十分に効いてさまざまな花でひしめき合っている、四方をガラスで囲まれた小さなキーパーと呼ばれる部屋の中に入った。
百合が好きかぁ。
だったら、メインの花はこれで決まりだな。
由一が最初に手に取ったのは、真っ白で大輪の花が見事な、カサブランカだった。
カサブランカは普通の百合よりはだいぶ高価だが、気品に溢れた姿がなんとも美しく、とてもいい香りがして、バースデーやお祝いにはピッタリの花なのだ。
「このカサブランカに霞草と、真っ赤な薔薇を二本でどうでしょうか?薔薇だけの花束よりもずっと高貴に見えますし、何よりもいい香りがするんです」
大輪の花を誇らしく咲かせ、大きな蕾を二つつけた気品溢れるカサブランカを見せて、真っ赤な薔薇と霞草を組み合わせながら由一が言うと、男性の目は嬉しそうに細められた。
本当はもうなんだっていいのだ。
この店員さんが作ってくれる花束だったら、どんな花だって綺麗に見える。
「あっ。それ、いいね。すごくいいよ。とても綺麗だし妻が喜びそうだよ。だけど・・・五千円で足りるんですか?なんか・・・とても高そうだけど?」
思っていた以上に豪華な花束は、男性に給料日前であることを思い出させた。
由一の顔に見とれていたが、やっと我に返ったのだ。
五千円の花束は、きっとこのサラリーマンの男性にしてみたら、とても高価な代物なのだ。
由一は、せっせと一生懸命に花束を作りながら両目を細めて言った。
「大丈夫ですよ。ちゃんと五千円以内で仕上げますから」
「・・・ありがとう。やっぱりここに来てよかったよ。いや、会社で噂に聞いてちょっと寄ってみたんだ。とてもセンスのいいお花屋さんがあるって。でもセンスがいいのは花屋じゃなくて、店員さんのことだったんだな。店員さん・・・なんだかとても綺麗だし・・・」
同性対して綺麗だなんて言ってしまって、果たしてそれは褒め言葉なのだろうかと、一瞬考えたサラリーマンだったが、綺麗なものは綺麗なのだからしょうがない。
どうみても、自分の妻よりもずっと綺麗なのだ。
でもやはり唐突で失礼だったのかもしれない。
「ありがとうございますっ」
由一は、素直に綺麗と言われたことを受け止め、礼を言った。
「・・・い、いえ」
サラリーマンの客は、照れたようにそう言って頭を掻き、嬉しそうに由一が持っている花を見つめた。
本当は花束じゃなくて、由一の顔をもっとじっくりと見ていたいのだが。
中心にカサブランカを挿し、真っ赤な薔薇がアクセントになっている花束は、もう出来あがろうとしていた。
「ラッピング代は結構ですから」
由一は花束の口を裁ちバサミで切って揃え、輪ゴムで結わえて、ピンク色の和紙と透明なラッピングペーパーで見栄え良くラッピングしていく。
そして最後に真っ赤なリボンを結ぶと、『はい』とサラリーマンに手渡した。
その花束を受け取った時のお客様の顔が、由一は一番好きだった。
本当に心から『うわっ、綺麗だ』『嬉しいっ』というような顔をしてくれるからだ。
どんな人でも、花束を受け取る瞬間は、至福の顔をするものだ。
これは、花が持つ純粋で可憐な美しさと魅力のせいだろうか。
と、由一は思っているのだが、実は男性は由一から花束を渡されたのが嬉しくて、ついニターッと笑ってしまっていたのだ。
「五千円いただきます」
「はい、じゃあ、これ。綺麗に作ってくれてありがとう。また・・・来年の結婚記念日にもここに来ますから。いや、クリスマスにも来るかもしれないけど・・・」
サラリーマンは嬉しそうにそう言って、由一に五千円を手渡すと何度も振り返って帰っていく。
花束を持ち慣れていないのか、行き交う人たちの視線に恥ずかしそうにしている。
だが、サラリーマンの後ろ姿からは、妻への愛情が満ち溢れているように由一には見えた。
「いいなー。あの照れながら持っていくっていうのが、いいんだよなー」
と、由一は思わず呟く。
だが実際には、男性は由一が作ってくれた花束が嬉しくて嬉しくてしょうがなかったのだ。
それに、ここに花を買いに来れば、また由一に会える。
その事実がサラリーマンを喜ばせていた。
サラリーマンの後ろ姿が見えなくなると、店の奥の方から一人の中年男性が姿を現した。着ているものは薄汚れた茶色いスラックスに、黒いポロシャツ。それに汚れた合皮の靴。
見た感じは少し太りぎみで、ちょっと不潔っぽい感じがして、黒いフレームの眼鏡を掛けている。華やかでお洒落を売り物にしているお花屋さんには、ちょっと不似合いな感じの中年男性だった。
「・・・またか?」
「あっ、佐川さん。見られちゃいましたか?すみません。今の薔薇のお金は私のバイト代から引いてください」
由一は、ペロッと舌を出しつつも申し訳なさそうに言う。
するとこの小さなフラワーショップのオーナーである佐川は、本当に困ったように顔を歪めた。
「いつもいつも・・・おまけばかりして。薔薇は二本で七百円だぞ。由一君の約一時間分のバイト代じゃないか。気がいいのもたいがいにしとかないと、あとで大変な目に遭うぞ?」
由一の優しすぎる性格を心配しているのか、さっきの二本の薔薇がもったいなくて言っているのか由一には分からなかったが、あまり深くオーナーの言っていることは考えなかった。
なぜなら、花が大好きな由一はお花屋さんで働くことが大好きだった。
だから、多少オーナーから怒られても全然気にならないし、そのためにバイト代が減ったとしても構わないと思っていた。
だってその代わりに、花束を受け取ったお客様の、零れんばかりの笑顔が見られるから。
ありがとうっていう顔が見られるから。
また来ますって、言ってくれるから。
「まぁ、由一君がバイトで来てくれてからというもの、つぶれかけていたこの店もなんとか持ち直して、今では結構有名になって遠くからもお客さんが足を運んでくれるようになったんだから。あまりうるさくは言いたくないけど・・・ 」
「すみません。今度は気を付けますから」
「・・・いいよ。さっきのお客さんはまたクリスマスに来てくれるだろうから」
「はいっ」
「薔薇は、さっきのサラリーマンの奥さんに、俺からの誕生日プレゼントだよ。まったく・・・」
「ありがとうございますっ」
由一は、いつも文句を言いながらもほんとはやっぱり優しいオーナーが、ちょっとだけ好きだった。
花が大好きな由一は、フラワーアレンジメントや花束を作るのがとてもうまかった。
美的センスが抜群にいいのだ。
全国なんとか、というような賞を持っているわけではない。
コンテストに出たことがあるわけでもないのに、由一はいつに間にかフラワーショップの経営者の間では、有名人になっていた。
今日も、由一が作った花束をキーパーの中に並べると、飛ぶように売れていく。
由一の優しさとセンスの良さと、何よりも純粋な心の美しさが溢れている花束は、何の気なしに通りがかった人にも、思わず買わせてしまう不思議な魅力があったのだ。
だが、花が飛ぶように売れていくのは美的センスだけの問題ではなく、もちろん由一の綺麗な姿を見たくて何度も足を運ぶ客もいるからだった。
そういうお客たちは、由一から買った花束を手渡される瞬間が嬉しくて、またやって来るのだ。
そんな由一の噂があっという間に広がり、都内の有名なフラワーショップは、こぞって由一をなんとか自分の店で働かせたいと望み、あの手この手を使って引き抜こうとしていた。
美的センスが抜群によくて人当たりのいい店員は、フラワーショップでは何物にも代えがたい、逸材なのだ。
しかも、見目麗しい男性店員となれば、女性客はもちろんのこと、男性客まで見込めるのだ。
だがどういうわけか由一自身は、このダサい格好のおじさんが一人でやっている小さなお花屋さんにバイトとして入ってしまった。
近所に次々と出店した近代的でモダンなフラワーショップに押されて、今にもつぶれそうになっていた『白樺』にどうして?と、誰もが疑問に思った。
だが由一は、どんなに破格な給料を提示されても、良い条件を出されても、他のフラワーショップに乗り換えようとはまったく思っていなかった。
由一が白樺にバイトで入ったのは、今から約一年前の春だった。
それから由一は、文句一つ言わずに時給九百円でこの白樺に雇われている。
「いらっしゃいませ」
「お見舞いの花束、作ってもらえますか?えっと・・・三千円ぐらいで・・・」
大学生らしいこの男性は、由一のファンの一人で、週に一度くらいの割合で通いつめている。毎週毎週、それなりの理由を見つけては花を買いに来るのだ。
先週は確か、友人の結婚祝いだったっけ?
「はい。分かりました」
「あの、私にも花束を作ってください。部屋のリビングに飾りたいんです」
次に声を掛けてきた中年の女性も由一の作るセンスのいい花束のファンであり、由一自身のファンでもある。
「はいっ。ありがとうございます」
キーパーに出入りして、さまざまな花束を作っていると、次々と客がやって来ては由一が作った花束を買っていく。
一見、女性と見間違うばかりに美しい顔立ちをしている由一は、いつもの優しい笑顔で応対している。
そしてあっという間に、魔法のように可憐な花束を作っていくのだ。
その手際の良さは見事だった。
そんな由一を、白樺の店主である佐川茂紀はさっきからずっと見つめている。
またいつもの癖が出るんだろうなーという、ちょっと困ったようなしかめっつらで。
きっとあのピンクのスイートピーを何本か、おまけで入れてやるつもりなのだ。
まぁ、それが由一のいいところなんだから仕方がないか。
そう思って諦めた佐川は、少し笑って大きな花瓶の水換えの仕事を続けた。